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田舎坊主の読み聞かせ法話

田舎坊主の読み聞かせ法話

By 田舎坊主 森田良恒

田舎坊主の読み聞かせ法話
田舎坊主が今まで出版した本の読み聞かせです
和歌山県紀の川市に住む、とある田舎坊主がお届けする独り言ー
もしこれがあなたの心に届けば、そこではじめて「法話」となるのかもしれません。
人には何が大事か、そして生きることの幸せを考えてみませんか。
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田舎坊主の求不得苦<おわりに>

田舎坊主の読み聞かせ法話Apr 25, 2024

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田舎坊主の求不得苦<おわりに>

田舎坊主の求不得苦<おわりに>

人は必ず、あっちへ行く。

あっちはとは、だれひとり帰ってきて現地報告したことのないところだ。

そんなことは分かっていても、自分はまだあっちへは行かないと多くの人は思っている。

どちらかというとあのお年寄りが先で、自分はまだ。

あの病院通いばかりしている人が先で自分はまだ。

そう思っている。 


「浜までは 海女も蓑着る 時雨かな」という句がある。


この句には二つの意味を含んでいる。

ひとつは、

「海水の中で水に濡れなければ仕事にならない海女でさえ、時雨に濡れて体調を崩すことのないように、死を説き、死を厭わない僧である私でもほんとうの悟りを得て仏さまのところにいくまでは体調に配慮して薬も飲むんだよ。」という意味だ。


ふたつは、

「海女さんは海にもぐって貝などを採ってそれを生業にしている。例外なく海にもぐればそのからだを濡らすことは分かっていても、その海に入るところまでの浜で時雨が降ってくれば、それには濡れないように蓑を着るものだ。人も例外なく死がやってくることはみんな知っているが、いよいよそのときが来るまで自分の死を考えないものだ。」という意味だ。


このふたつの意味はどちらかというと対照的だが、後者の意味の方が深いような気がする。

お釈迦さまは「匙の 汁に浸って その味を知らず」と説いた。


香り高いコーヒーにシュガーやミルクを入れ、スプーンでひと混ぜしてもそのスプーンはコーヒーの味も香りも分からないように、私たちは生きてるあいだに自分の周囲で、突然の事故や災害、病気などで亡くなる人を常に目や耳にして知っているのに、そのスプーンのようにいつまでも自分のこととして考えないというのだ。

 

あっちへ行くのは「あすかも知れない」と思い生きることで、どれだけ大切に生きることができるのだろうか。


 いま険悪中の友人と仲直りしとかないと・・・・

 借りた義理は心を込めて返しておかないと・・・・

あやまる機会を逸している人は早めにあやまっとかないと・・・・

 何かの役に立ちたいと思っているならすぐ実行しないと・・・・

 いまあなたが必要とされているならそのために尽くさないと・・・・

 さあ、すぐ実践してみてはどうだろう。

合掌

Apr 25, 202405:23
田舎坊主の求不得苦<いまを生きる>

田舎坊主の求不得苦<いまを生きる>

私が町役場で社会同和教育指導員という辞令をいただいていた1994年11月のことである。

人権週間にあわせて人権教育講演会を開催することになった。担当者はそれぞれ意見を出して講演者の選定に当たった。

とりわけ人権の話となれば聴衆者も少なく、ときには難解な講義形式で話される先生もあることから町民から敬遠されることが多かったのだ。

私は予算の関係もあるが、人権と言えども楽しく話してくれる人はいないかと考え、最終的にタレントのレオナルド熊さんに決めたのである。

レオナルド熊さんといえば、1980年ごろ、いま名脇役の渋い俳優として活躍する石倉三郎氏とお笑いコンビを組んで大活躍し、ニッカポッカのズボンに腹巻き、チョビ髭をつけた格好でおおいに笑わせてくれた。

レオナルド熊さんに、「講演テーマを何にしましょうか」と聞いたところ、「いまを生きる」にして下さいといわれた。

失礼だと思ったがもう一度聞き直した。テレビに出てくる熊さんと「いまを生きる」がピンと結びつかなかったのだ。やはり、

「『いまを生きる』でお願いします」と、念を押された。

このテーマについては講演会の当日、控え室で次のようなこと聞かせていただいた。


「先月のことなんだけど、医者に行ったら末期の膀胱ガンだっていわれたのよ。いつまでの命かは医者は言わなかったけどさ、あんまり長くないんだよ、っていうかそう思ってるの。ちょうど和歌山に来る前に友だちが『ガン祝いの会』ってのを開いてくれてさ、励ましてもらったっていうか、みんなに笑わせてもらってきたのよ。この講演会の話があったときテーマを何にするか聞かれて、俺にゃあ似あわねえけど『いまを生きる』しかないと思ったんだ。」と、話してくれた。

 私はもちろんそんなことは知るよしもなかったから、その話に驚かされるとともに、末期ガンの体で和歌山に来てくれたことも「いまを生きる」に含まれていることにはじめて気がついた。

 

講演会には多くの町民が来てくれた。

講演では熊さんは元気いっぱい話してくれた。


・テレビで売れるようになる少しに結核で入院していて、ほんとうは病弱なこと。

・笑いが止まらないほどテレビの出演が多くなってきたこと。

・社会をいじくって笑いを作ってきたこと。

・売れてくるとコマーシャルの出演要請が来て、そのなかでも社会をいじくるセリフが大うけとなって、当時そのセリフがはやり言葉となったこと。

・そうなればさらに仕事がどんどん増えてきたこと。

・ギャラはどんどん上がり、お金がばっさばっさ入ってきたこと。

・収入は銀行に貯金しないでタンス預金だったこと。

・タンスがいっぱいになって入らなくなったので、押し入れ預金になったこと。

・その押し入れもいっぱいになって、タンスの戸を開けたらお金があふれ出てきたこと。

・お金が邪魔になって面倒くさくなってきたこと。


 人権講演会場はおおきな笑いに包まれた。


最後に熊さんは、

「もともとからだが弱かったから、ほんとうに一生けんめいがんばりましたよ。

いつ死ぬかも分からなかったからね。

そのときそのとき手をぬかず、やってきたからよかったんだね。

いましかないと思って生きること。それしかないね。

ありがとう。」

そう言って壇上を降りた。

もちろん自分が末期ガンであることは話さなかった。

私は熊さんの笑顔に一抹の寂しさのようなものを隠せないことに気がついていた。


それから10日ほど経った日、テレビでレオナルド熊さん急死のニュースが流れていた。

そのときの驚きとともに、講演会のテーマを「いまを生きる」としたレオナルド熊さんの熱い思いと、あらためてそのテーマの重みを考えさせられた。


合掌

Apr 18, 202408:47
田舎坊主の求不得苦<命の布施>

田舎坊主の求不得苦<命の布施>

私たちは食事の前に「いただきます」、食後は「ご馳走さまです」という。

ある中学校の講演で「いただきますはだれに言いますか?」という質問をした。

子どもたちに「きのう何を食べましたか?」と聞くと、「おでん」と答えてくれた。

「おでんの中の何を食べましたか?」

と聞くと、「たまご、ダイコン、牛すじ」と答えてくれた。

私たちは誰かのために働いたり、誰かの役に立つ作業をすれば報酬がいただける。会社に行って働けばお給料がいただける。

でも、たまごやダイコンや牛すじを食べればあなたの栄養となりエネルギー

となり命になるのに、鶏や牛やだいこんに報酬は渡らない。

お父さんが働いたお給料で、お母さんが鶏や牛やダイコンなどのお買い物をしてお金を支払っても、それはお店や卸業者や生産者に手渡されて、鶏や牛やだいこんには渡らない。

それどころか牛が解体処理場にいくとき涙を流すといい、鶏は狭いケージの中を精一杯羽ばたいて出ようとしないという。

すでに彼らは殺されることを悟っているのだ。

ダイコンは花を咲かせ種を蓄えるまで、大地に精いっぱい根を張ってなかなか抜かれまいとふんばるのだ。

これらの命をいただくのだから、自然に「いただきます」とでてくるのだ。

そして食べ終わればわざわざ「いただいた命で馳せ走ることができます」という意味の

「ご馳走さま」と言って、感謝の言葉で締めくくるのだ。


以前は「たべる」を「喰」とも書いた。この字は人がひざまずいて食べものを口に運んでいるようすからできた象形文字だそうだ。

人が食べものを口にすることによって「𠆢」の下に「口」がとり込まれ、この文字が変化して「命」という文字ができている。

仏教では、鶏や牛やダイコンのようにその命を提供し、人はそれを食しその命をつないでいる行為を、インドの古い言葉、梵語で「ダーナ(布施)」というのだ。「ダーナ」は日本では「檀那」となり、寺に布施する人を意味し、布施する家は「檀家」ということになる。

さらに「ダーナ」は英語圏では「ドナー」と変化する。

今では医療用語の「ドナー(提供者)」として普及しているが、本来はなんの報酬も求めず、他を生かすことが語源なのだ。

私たちは日々無数の食べものの「ダーナ(布施)」という行為で自分の命を生かさせてもらっているのだ。

だから「いただきます」は毎日の食卓にのぼる食べものに対して言っているのであって、お父さんやお母さんに言うのではないのだ。

私の娘が胆道閉鎖症という難病で死んだ四年後、平成元年に世界で四例目、日本で初めての生体肝移植がおこなわれた。ドナーは父親で、レシピエントとして手術を受けた子どもの病気は同じ胆道閉鎖症だった。

日本で脳死移植が認められるまでの緊急避難的に実施された手術であったが、各方面から「あなたは、やらないのか」という同病患者家族へのプレッシャーが社会に生まれるなどとして「問題がある」との声が多くあがったのを覚えている。

しかし、そのときの執刀医は、「このような状況のなかで、肝硬変で余命いくばくもないわが子を前にして、自分の肝臓を切ってでも助けたいという父親の心中を聞いたとき、主治医としてはこれしか方法はないと確信した。」

と、日本初の手術に対する決意を述べていた。

結局、その子は術後280日間生きぬき、翌年8月24日のお地蔵さまのご縁日に亡くなった。


葬儀に参列した執刀医は、「助けてあげられなくてごめんね、先生はこれからももっと勉強してYちゃんから教えてもらったたくさんのことを生かして、病気の子どもたちを一人でも多く救いたいと思います。あなたの死を絶対むだにはしません。」

と、涙ながらに弔辞を述べられた。


いま生体肝移植は一般保険治療対象の手術となっている。手術例も5000例を超えるという。

このドナーとなった尊い父親の行為と、亡くなっていったレシピエントであるYちゃんがのこしたものは、たくさんの命の贈りものとなって今多くの患者を救っているのだ。


合掌


Apr 11, 202410:40
田舎坊主の求不得苦<僕のおばあちゃん>

田舎坊主の求不得苦<僕のおばあちゃん>

学生のころ中村久子さんの『こころの手足』(春秋社)を読んだ。

中村久子さんは幼いころの凍傷が原因で脱疽(体組織が壊死していくこと)となり両手両足を切断することになる。

母の深い愛情で育てられ、残った短い手で編み物もできるまでになった。

成人したころ実母は再婚したが、再婚相手の継父に興行師に身売りされてしまうのだ。

日々の生活は、両手両足のない姿を見世物として舞台に上がらされ、母から教わった生きる手立ての裁縫や編み物などは哀しい哉、皮肉にも見世物として役に立ったのである。

自分の体は仏からいただいたもので、なにひとつ恨んでいないと語り、むしろ手足のない不自由な体であるからこそ強く生きることができたと述懐されている。

『こころの手足』のなかに次のような詩がある。


さわやかな 秋の朝


 「タオル 取ってちょうだい」

 「おーい」と答える

  良人(おっと)がある

 「ハーイ」という

  娘がおる

  歯をみがく

  義歯の取り外し

  かおを洗う

  短いけれど

  指のない

  まるい

  つよい手が

  何でもしてくれる

  断端(きれはし)に骨のない

  やわらかい腕もある

  何でもしてくれる

  短い手もある


  ある ある ある

  みんなある


  さわやかな

  秋の朝


何もなくても、幸せを感じることができるのだ。

しかし何もないと思っているのは私の方であり、中村久子さんにはいっぱいあるのだ。

「無一物 無尽蔵」とはこのことなのだ。

この本を泣きながら読んだころ、そう思った。


私の祖母も両手は中村久子さんのようだった。手首の10㎝位下から、断端(きれはし)に骨のないやわらかい腕だった。

私が生を受け、物ごころがついたころから祖母は手がなかったのでまったく違和感もなくその姿を受け入れていた。

中学に上がったころ父から祖母の手がなくなった理由を聞かせてもらった。


私の自坊、不動寺は50mほどの急坂を上がったところにある。

寺の敷地内の北側に大岩盤が地表に現れ、その岩盤を基礎石に利用して本堂は建てられている。

あるとき、熱を出した父を祖母が背負って紀ノ川沿いの診療所へ行くとき、寺の近くの坂道で父を背負ったまま倒れたそうである。

その当時はもちろん舗装されているわけではなく、牛にくびきをつけた荷車がその地道の坂道を行き来していた。

そんな急な坂道で子どもを背負ったまま倒れ、両手をついた傷口からばい菌が入ったのだ。

祖母は自分は大丈夫とばかり、ろくに医者に診てもらうこともなく、子どもである父のことを気づかい、診療所をあとにしたのである。

その後、医者に診せたといっても、まともな抗生物質も薬剤も十分ではない時代のこと、やがて祖母の両手は腫れあがってきた。

ついには両手とも脱疽となり、全身に壊死が広がる前に手首から一〇センチくらいのところから両方切断しなければならなくなったのである。

 

しかし、私の知っている祖母は、いつも着物を着て、長火鉢にすわり、キセルできざみの煙草をふかしていた。

断端に骨のないやわらかい手でキセルにうまくきざみの煙草をつめるのである。もちろんマッチも上手に使った。

長火鉢の端には針山もついていて、自分の着物の繕いは全部自分でこなしていた。

食事のとき、小皿に盛ったおかずを左手のひじを曲げたところにうまくのせ、右ひじに箸をはさんで美味しそうに食べた。

とくに不安定なお粥さんの入ったお茶碗を左ひじにのせ、梅干しの種を出して上手に食べていたのをいまも覚えている。

 

祖母が両手を失って以来、すべてがあたりまえのようにできるようになるまでどれだけの時間がかかったことだろうか。

そしてどれほどの試行錯誤に悩んだだろうか。どれほどの試練を乗り越えたのだろうか。

多分その苦しみは祖母にしか分からなかったと思う。

私がいやいや高野山にのぼり(いやいやだったことは『田舎坊主のぶつぶつ説法』(文芸社)に詳しく書いた)、小坊主として師僧の寺から高野山高校に通った。


一年生のとき担任の先生に勧められ校内弁論大会にでた。

そのときのテーマは「僕のおばあちゃん」だった。


15歳で家を出て高野山にのぼり、いつも家族みんなのことばかり考えていた。なかでも四年前に亡くなった両手のない祖母のことは、私には見慣れたすがたで、どんなしぐさも普通であっても世間的にはそうではなかったのだ。

いまひとりになって考えてみると、祖母は「不自由であっても努力すればできるようになる。なにもなくなっても決して不幸ではない。恵まれないなかでこそ努力するのだ」と教えてくれているように思った。

そのとき優秀賞をいただけたのは、祖母という強い生き方をしたお手本が身近にいたからだった。


この祖母も自分は何も持たず、逝ったのは81歳だった。もちろん持つ手もなかったが・・・。

私には多くのものを残してくれた祖母だった。


合掌

Apr 04, 202411:40
田舎坊主の求不得苦<副住職が慰霊護摩を焚く>

田舎坊主の求不得苦<副住職が慰霊護摩を焚く>

田舎坊主の寺、不動寺が建立されたのは、慶長六年(1601年)開山と伝えられている。

1700年頃に本堂が焼失し、その後、宝永三年(1706年)、現在の本堂が再建された。この年は、西国霊場で有名な粉河寺の山門が建立される前年のことになる。

不動寺はその名の通り本尊は不動明王だ。

正式本尊名は「大日大聖不動明王」といい、真言宗の本尊である「大日如来」の化身といわれていて、続日本書記には高名な仏師「小野篁(おののたかむら)作」と記されている。

本来、不動明王を本尊とする本堂の内陣には「護摩壇」が据えられていて、もちろん不動寺にもあるのだが、残念ながら護摩を焚くことができなかった。

というのは、今から約70年前、護摩を焚く鉄製釜が大戦時中に強制的に供出され、現在まで釜のない状態が続いていたのだ。

今から35年前、現住職の田舎坊主が副住職に任命された際、護摩焚き法要再開のため、老朽化した護摩壇を修復新調することを願い見積もりをおこなったところ、最低500万円という高額費用がかかることが分かり、総代等に相談するも断念を余儀なくされた経緯があったのだ。


ところが幸い、娘の旦那さん和道師が副住職に就いたことを機に、再度見積もりしてもらったところ修復技術も進化し、老朽化した護摩壇はほとんど新品同様になるという。

しかも35年前の見積額のほぼ半額で修復できることがわかり、70年ぶりに護摩壇が修復されるとともに護摩釜が据えられるようになった。

ちなみに今回の修復で分かったことだが、不動寺の護摩壇は、寛政五年(1793年)、今から219年前、住職宥全師の代に寄進されたことが護摩壇の裏書きの寄進控えから判明した。


平成23年12月22日に護摩壇の修復が完成し、新たに護摩天蓋が新調されるとともに、この際、灯籠などその他の堂内備品も塗り替え修復や花瓶の新調もされ、見違えるほどの護摩堂として完成したのだ。

護摩を焚くには前方便から入壇し、護摩木を炊きあげるまで約2時間を要する長座となる。そのため午前中に前方便に入り、必要な作法を済ませた上で午後の本護摩壇に入壇するのだ。

護摩法要では参詣者に祈願を書き添えた護摩木が導師の読み上げとともに焚きあげられ、開壇、慰霊とともに息災護摩としていとなまれる。


私は修復完成の落慶法要ではどうしても祈願したいことがあった。

それは東日本大災害で被災した御魂(みたま)に対する慰霊と、紀南地方に甚大な被害をもたらした台風12号被災者の慰霊をつとめたかったのだ。

平成23年12月28日終い不動の縁日に、東日本大震災及び台風12号被災者慰霊の特大塔婆を奉供(ほうぐ)し、修復完成した護摩壇の開壇をかねた護摩焚き法要が70年ぶりに副住職和道師の行者作法のもと、多くの参詣者が見守るなか厳粛に奉修された。

 

護摩の炎が上がると同時に護摩壇の周囲に陣取った参詣者は合掌しながら約1時間の間、熱心に般若心経、不動真言を唱え続けた。

護摩法要が終われば、参詣者は護摩釜の周囲に寄り添い、護摩の法煙(いわゆる護摩の灰)を身に浴びて、さらなる息災厄除け、身体健康などを祈願するのだ。

そのあと庫裡では大根炊きのお接待があり、本堂での長座を労い「おいしいね」といいながら、熱々の大根を頬張っていた。


この修復に際しては、各方面から浄財、布施をご喜捨いただいた。この尊い浄財があればこそ70年ぶりの護摩法要を厳修することができたのだ。

ありがたいの一言に尽きる。


ちなみに、最近スポーツに関連したテレビ番組で阪神タイガースの新井貴浩選手が毎年シーズン前に法衣を着て護摩祈祷をしていると、そのようすが報じられていた。法衣は飛び火で穴が空き、顔にはやけどの跡がいくつも残るそうだが、厳しい護摩法要の中で心を集中し、迷いをなくし、シーズンを通してがんばれる精神力を養うのだそうだ。


この護摩焚き法要は護摩祈祷(きとう)とも呼ばれ、弘法大師が日本に伝えたものである。護摩の火は悪魔を降伏し、悪意のある人の心をきよめ、戒め、また悩める人の心の迷いを取り除くとされている。

このたびの修復護摩開壇の落慶法要は、慰霊と祈り、感謝と喜捨が重なりあい、自他ともに救わんとする熱い行でもあった。


合掌

Mar 28, 202410:50
田舎坊主の求不得苦<人生最大の布施>

田舎坊主の求不得苦<人生最大の布施>

特別養護老健施設でヘルパーとして働いていた娘が2003年1月、突然「私、高野山尼僧学院に行く」といって剃髪得度した。

本人にとっては突然ではなかったのかも知れないが、娘一人しかいない私にとってこの寺は私の代で最後と、腹をくくっていたのでほんとうに驚いた。

娘は得度に先立って剃髪をしたのだが、案外「つるつる頭」に落胆はしていないようすだった。そのことがかえって私の胸を熱くした。

しかし高野山での一年間がほんとうにつらかったであろうことは、面会に行ったとき、しもやけで両手両足両耳がまっ赤に腫れているのをみて容易に想像できた。

一年間の尼僧修行すべて卒業成満し、2004年から自坊での日行や法事などを手助けしてくれるようになった。

その娘は配管職人の在家に嫁ぎながらも寺の手伝いを続けていたが、ありがたいことにやがて娘の旦那さんも出家という重い決断をしてくれたのだ。

自坊不動寺は私の代で縁者が住職を務めることはないと思っていたのが、今は二人も副住職ができたことになる。

しかも寺の近くに新居を構えてくれるというのだから、これはもうありがたいの一言に尽きるのだ。

そこで、田舎坊主としてやっと貯まった貯金のほとんど1000万円を新築の援助として足してやることを宣言したのだ。

2011年2月のことだった。

というのもちょうど新築資金として親から1000万円援助しても贈与税がかからないという特例が認められていたからである。

ありがたいのであればやはりお金でその気持ちを表さないと・・・。

その翌月、3月11日に東日本大震災が発生したのだ。

テレビの午後の情報番組を見ていたとき、突然、「いまスタジオが揺れています。地震です。」

その後、各地の震度がテロップに表示され東北地方で大きな地震が発生したことを伝え、特別番組に切り替わった。

テレビは未曾有の大津波を生中継した。

それは身震いのするほど恐ろしい光景が映し出されていたのだ。

津波は防波堤を乗り越え、車が流され、家が流され、大木がなぎ倒され、田畑をのみ込んでいる。

まるで映画の「日本沈没」や「デイ・アフター・ツモロー」と重なり、単なる映像としてみている自分が、

「あの車は水が入ってしまったからもうだめかなあ」「あの家の家具はどうなるのだろう」などと、最初は的外れな心配しか思いつかなかった。

しかしふと現実に戻れば、未だ経験したことのない大災害が目の前で起こっていたのだ。

テレビ画面は仙台空港を撮しだしていた。

みるみるうちに濁流が滑走路に進入し車も飛行機までもが押し流され、空港ターミナルが浸水している。


この瞬間、わが子を助けたいとの一心で、はじめて飛行機に乗って降り立ったのが仙台だった、という記憶が私の頭をよぎった。

そして、1年半入院してお世話になった東北のために、仙台のために何かしなければという思いが沸々とわき上がってきたのだ。

翌日の3月12日、子どもたちの新築に足してやりたいと思っていた1000万円を寄付する決心をした。

早速、妻や子どもたちにこのことを話すと、皆快く承諾してくれた。

私の心は有難いと思う気持とすまない気持ちが交錯していた。

休み明け3月15日、銀行から1000万円をおろし、その手で地元の紀の川市に「大震災で困っている方に使って下さい」と持参した。

紀の川市ではまだ募金の窓口はできていない状態だったので保留となり、その後、紀の川市長さんから直接電話が入った。

それは、「紀の川市の名前で合算した募金として報告するにはあまりにも高額なので、あなたの名前を出して日本赤十字和歌山支部に持参してもいいか?」

ということだった。

私は、「紀の川市に寄付したものですからお任せします」

と返事した。

これが私の人生最大の財施となった。

合掌

Mar 21, 202409:50
田舎坊主の求不得苦<大災害の記憶>

田舎坊主の求不得苦<大災害の記憶>

私が1951年に生を受けてから、60歳の還暦になるまで、日本は幾多の自然災害に見舞われてきた。

私が記憶しているものだけでも、次のようなものがある。

1983年、日本海中部地震(秋田,青森)、

1990年、雲仙岳噴火(長崎)、

1993年、北海道南西沖地震(北海道)、

1995年、阪神・淡路大震災(兵庫)、

2008年、岩手・宮城内陸地震(東北)。


そして2011年3月11日に東日本大震災が発生した。


大地震と巨大津波はそれら全てを根こそぎ奪ってしまった。努力の末、得てきたもの全てを、です。

家を流され、職場を流され、生活の道具を流され、ふるさとを流され、家族を流され、すべてが無に帰した。

助かった人は文字どおり「命からがら着の身着のまま」で、残ったのは命だけという人がほとんどなのだ。

大震災の前日、新築に引っ越したという若いご夫婦が、コンクリートの基礎だけ残ったその場所を指さしながら、

「ここが両親の部屋だった」と、泣き崩れながらも、「家族がたすかっただけでもありがたい」と、話していたのが印象的だった。

この大震災において奇跡的に助かった人たちの話には枚挙に暇がない。と同時に自然の驚異にただただ驚愕するばかりだ。


しかし絶望の淵になんとか踏みとどまった人たちの口から出る言葉は、

「命があっただけで、しあわせです」と。さらに避難所で家族が見つかった時、「生きててよかった。それだけで充分です」

という人もいた。

たった1杯の温かい飲み物や食べ物が差し入れられれば、「本当にありがたいです」と話す。そして、「まだ見つからない人も多いなかで、これ以上のことは贅沢です」とも話されるのだ。

当初、避難所などにいる被災者から聞こえてくるのは「感謝です」「ありがたいです」という言葉であふれていた。

ある避難所のなかにいた中学1年生くらいの女の子が「今までどれだけしあわせだったか、はじめて気がつきました」と話していたことが、私の脳裏から離れなかった。


ひるがえって、大震災を経験しない私は毎日温かいご飯やお味噌汁をいただいている。

はたしてその温かいご飯やお味噌汁に「ああ、ありがたい」と深い感謝でいただいているだろうか。大きなおかげを感じているだろうか。

そしていま「あたりまえ」の生活が、どれだけ幸せなことかと感じているだろうか。

「あたりまえ」という環境ほど人間の心を麻痺させてしまうものはないように思うのだ。


そしてまた大きな地震が発生しました。能登半島地震です。


合掌

Mar 14, 202406:35
田舎坊主の求不得苦<タイガーマスク現象>

田舎坊主の求不得苦<タイガーマスク現象>

2010年の12月クリスマスのころ、ある児童施設にランドセルが送られ、「伊達直人からの善意の贈り物」としてメディアに大きく取り上げられた。

その後、全国各地で次々と同様の施設に贈りものが届くようになり、

「日本人も捨てたものじゃない」

「新たな寄付の形態が現れた」

など、巷間喧しく論じられるようになった。

「伊達直人」名で届けられた贈りものは、2011年1月には物品や金銭を含め47都道府県すべてに同様の寄付が寄せられたそうだ。

メディアはこれを「タイガーマスク現象」と名付けた。

最近、駅前や繁華街などで街頭募金が行われているのをよく見かけるようになったが、それでも日本の寄付文化はあまり成熟しているとは言えないだろう。

私は毎年1回、JR和歌山駅前で署名と募金活動をおこなっている。もう20年以上になるが、気持ちよく署名や募金をしてくれる方々のすがたに、いつも感謝の気持ちでいっぱいになる。

なかでも若い学生や子どもたちがなけなしのお小遣いから寄付してくれるすがたにはほんとうに頭が下がるのだ。しかもその際、「がんばって下さい」と言葉をかけてくれるのには、いつも胸が熱くなる。

私が経験するかぎり、募金や署名に協力してくれるのは、概して若者が多い。むしろ大人というか中年の人は、いかにも“私はいま忙しいの”といわんばかりに無視していく人が多いのも事実だ。

なかには無視するのではなく、「この募金はどのように使われるのですか?」と、その使い道を確認した上で募金する、堅実型の人も増えてきた。


いずれにしても、募金することを恥ずかしがっている人は確かに多いように思う。この日本人らしさともいうべき謙虚さが財政基盤の弱い難病患者団体などの募金活動において充分な資金を得られない理由でもある。


アメリカなどでは政治にしても慈善事業にしても個人・団体にかかわらず、日本とは比べものにならないほど日常化しているという。寄付をすることが「照れくさい」「恥ずかしい」「いい格好をしているように思われないだろうか」など、日本人独特の文化ともいうべきものが、寄付文化の成熟を阻んでいるように思うのだ。


しかし「タイガーマスク現象」が報道されて以来、多くの人が「この方法だったら自分にもなにかできるのではないか」「この現象に便乗して恵まれない人たちのために何か役に立ちたい」と、実際に行動を起こした人が多く出現したのではないだろうか。

この「タイガーマスク現象」華やかなりしころ、1月15日に私の住む和歌山県紀の川市に、「難病患者のために使って下さい」

と100万円が寄付されたのだ。この時の寄付者の名前は「華岡青洲」だった。

添えられた手紙には、「同封のお金を難病患者の会へきふして下さい。ある病院で『田舎坊主の愛別離苦』をよんで私の人生と重なり共感しました。難病の方の役に立てて下さい。華岡青洲」と書かれていた。

市の方は早速、私が事務局長をつとめるめる「紀の川市難病患者家族会きほく」に届けて下さった。

華岡青洲は、アメリカ人モントルのエーテル麻酔の成功からさかのぼること42年、1804年世界ではじめて全身麻酔薬「通仙散」による乳ガン摘出手術を成功させた「医聖」とよばれる人で、私の寺から1㎞ほど北に生誕地がある。

当時、華岡青洲のもとには全国から最新医学を学びたいと多くの医学生が集まり学業と実験に励んだ。

そしてやがて修学を終え春林軒を卒業して故郷に帰る弟子たちに、免状とともに自筆の漢詩をしたためた一幅の掛け軸を贈った。その一編の詩には次のように書かれていた。

 竹屋簫然烏雀喧(ちくおくしようぜんうじやくかまびすし)

 風光自適臥寒村(ふうこうおのずからかんそんにがすにてきす)

唯思起死回生術(ただおもうきしかいせいのじゆつ)

 何望軽裘肥馬門(なんぞのぞまんけいきゆうひばのもん)

この意味は、住まいの家はそんなに立派ではないが、鳥のさえずりが聞こえ、さわやかな風が吹く、豊かな自然に恵まれた田舎に住んでいる。

私は、富も地位も栄誉も望まない。ひたすら思うことは、病人を回生させる医術の奥義を極め、難病患者を救いたいのだ。

お金を儲けて絹の着物を着たいとか、立派な馬に乗りたいとか、決して思わない。

100万円という大金を、言わば匿名で寄付してくれたその方も、華岡青洲の精神に通じるものがあったのだと思う。

タイガーマスク現象はほとんどが施設の子どもたちなどのために寄付されたものだった。しかし、難病患者のためにと寄付されたのは全国的にも初めてのことで、このことは一部の全国紙でも報道された。

それにしても、私の患者会に寄付されたことと、その理由が私の拙書「田舎坊主の愛別離苦」を読んで共感してくれたことに驚きとともに「大切に使わせて頂きます」との思いが強かったことを今でも鮮明に覚えている。

合掌

Mar 07, 202411:31
田舎坊主の求不得苦<はじめての布施>

田舎坊主の求不得苦<はじめての布施>

「布施」には財施と無財施がある。

ミャンマーなど上座部仏教で僧侶の托鉢に入れるものはいわゆる財施である。生活必需品であったり、お金であったり、食品類などだ。まさにこれはインドで経験した「バクシーシ(喜捨)」で、人々は喜んで布施し捨てているのだ。鉢に入れたもので喜んでもらえると思い、そのことで心が満たされ平安になり、その功徳により後生さえも幸せになれると考えられているのだ。

しかし財施できるということは、捨てるものがあるからこそであって、なかにはそれすらない人たちだって多くいる。

はたしてそのような人たちにそれに代わる功徳があるのだろうか。

仏教ではすべての人たちに、もちろん財施できない人たちにも功徳ある布施の方法を説いている。

それが「無財施」なのだ。

一般的に「無財の七施」としてよく知られているのがこれだ。


「眼施」いかなる人にも温かいまなざしを忘れず接すること

「和顔施」なごやかな笑顔で接すること

「言辞施」相手を思いやる言葉で満ちていること

「身施」あなたの力でつねに人の手助けをすること

「心施」うれしいときも悲しいときも相手の心に寄り添うこと

「座施」相手の疲れを察し席を譲るように自分の立場を差し出すこと

「舎施」雨に濡れてる人に軒を貸すように温かく迎え入れること


お金のある人はお金でできます。お金がなくてもあなたの笑顔や言葉や振る舞いなどでも布施はできるというのが無財施の教えなのだ。

しかも仏教では笑顔や言葉でもって表現できない人でも「祈る」ということで布施できるとするのだ。言いかえると人はすべて布施できる立場にあるということになる。

ちなみに「座施」や「舎施」には、粗末な布を巻いただけの修行者が法を説きながら歩いた、古代インドの仏教者に対する接し方というものが色濃くのこされているように思う。

それは、広い大地を歩きまわり、疲れきった修行者の体をこころよく休めさせることは、尊い布施であったのだ。


田舎坊主の自坊にも私が子どものころ、みすぼらしい姿の行者のような人が、「本堂の軒でもいいから泊めて下さい」

と、よくやってきた。

母は毛布と枕を差し出し、本堂で一夜の宿を貸していたが、私はただただ怖さが先立っていた。

翌朝には、母がその行者におにぎりを持たせ、旅の無事を告げて見送っていたのを今でも覚えている。

考えてみるとこれこそ、「舎施」であったのだ。

1978年来日したマザーテレサは東京での講演で、

「貧困であること、障害があること、病気であることは決して不幸でも悲しいことでもない。人間にとって一番不幸で悲しいことは、だれからも必要とされず、認められず、孤独であること。しかもそういう人が先進文明諸国の都会にたくさんいる」

との主旨の話をした。マザー・テレサに会いたいと思った。


1989年5月、難病の人たちの患者会である和歌山県難病団体連絡協議会を設立した私は、その年の八月から九月にかけてはじめてインドへ行った。

ベナレス(バナラシ)の「死を待つ人の家」に行けば、会えるかも知れないという期待をもっていたのだ。

そこは正式には「カルカッタ公社ニルマル・ヒルダイ」と呼ばれていた。

「カルカッタ」という地名の語源となった、カーリーガート寺院の一部に、マザー・テレサが市に依頼して提供されている施設である。通りの角にあるこの建物は、二階正面に聖母マリア像が掲げられている。三段くらいの階段を上がり、戸を開けると左手に30台ほどの粗末なパイプベッドが並んでいる。

紺色の毛布だけが敷かれた上に、手足は細り、おなかを異常に腫らした老人や、口を開け、今にも息を止めてしまいそうな人たちが、甲斐甲斐しく動きまわるシスターたちとは対照的に、静かに横たわっていた。


私はふと入り口のすぐ横に小さな花の山に気がついた。

小さな箱の上にブーゲンビリアやストレチアなど色とりどりの花が盛られ、二本の担ぎ棒のようなものが箱の下に敷かれていた。 イギリスから奉仕に来ているシスターに、「これは?」と聞くと、ついさきほど小さな子どもが息を引きとって、これからガンジス河で火葬にするというのだ。

私は、難病で亡くなった娘の死と重なり胸が熱くなった。

ここに収容されるのは、老人だけではないのだ。家もなく身寄りもない小さな子どもが道ばたからひん死の状態で運ばれてくるのだ。


今、自分にできることはなんなのか?

なにがしかの布施をすることしか思い浮かばなかった。その時の手持ち分、3000ルピーをシスターに手渡して「死を待つ人の家」をあとにした。

日本ではお布施をいただいて生きている私にとって、このときの3000ルピーが初めての布施だった。


結局、私はマザー・テレサに会うことも顔を見ることもできなかった。


その一生を弱い立場の人を孤独にさせる「社会」というものと闘っていたマザー・テレサの偉大な人生に、只ただ頭が下がるばかりである。しかも心臓病が悪化し体調を崩したとき、周囲の手術のすすめに対し「貧しい人と同じように死にたい」といって特別扱いを拒否したのだ。

1997年9月6日、人生そのものを「布施」したマザーテレサは一般人としてはじめて国葬で送られた。87歳だった。

合掌

Feb 29, 202413:15
田舎坊主の求不得苦<捨てさせていただく>

田舎坊主の求不得苦<捨てさせていただく>

むかし、中井貴一が主演した『ビルマの竪琴』という映画を見た。

ビルマ(現在のミャンマー)で戦死していった戦友を供養するため、現地で出家した水島上等兵が日本に帰還する部隊の戦友たちにビルマの竪琴で『埴生の宿』を奏でるという内容だと記憶している。

そのなかでのある場面を印象的に覚えているのだ。

その場面は正確ではないと思うが、垣根越しに日本兵が托鉢を持ったビルマの僧にお布施(お金か物か定かではないが)を鉢に入れたときに、日本兵が「この国の坊主はお礼を言わぬ」という主旨のセリフがあった。


托鉢は本来、生産活動を行わない僧が毎日街を歩いて信者から米やお金などの生活必需品を鉢の中に入れてもらうことだ。

とくに現在でも東南アジアの上座部仏教とよばれる仏教圏では日常的に行われている。

この托鉢の鉢は「捨て鉢」であり、信者など人々は「捨てさせてもらっている」のだ。

僧の方は「捨てさせてあげている」ので、お礼を言うのは僧ではなく鉢に物を入れる方なのだ。

僧に供養することが最高の功徳と考えられているのだから「捨てさせてもらう」ことによって幸せな心になれるのである。

僧にとって生活必需品とはいえ、鉢の中身については何らのこだわりも執着もない。

だから、ときにはお金の上に汁物が入れられる場合も少なくない。

きれいや汚いの判断もしなければ、ただありのままに受け入れるのだ。「捨て鉢」なのだから。


映画「ビルマの竪琴」のなかで、日本兵が「この国の坊主はお礼を言わぬ」というセリフがあったのも、当然といえば当然なのだ。

こう考えてみたらどうだろう。


私たちは週に何回かゴミ収集のサービスを受けている。

もちろんゴミだからそれに執着をしていない。というよりむしろ早く手放したいと思っている。

ゴミ収集のパッカー車に乗ってくる人には「ご苦労さま。ありがとう。」という。

礼をいうのは捨てた私たちの方だ。


一概に托鉢とゴミ収集を同列に語るのも問題はあるが、しかし、心の持ちようは信者の方は「自分のもの」という執着をはなれて「捨てる」。僧は捨てられるものに執着せず、ありのまま、あるがままに受け入れて生活の糧にするのだ。

私はいつも法事などでよく話すのだ。

「しっかり坊主に捨てて下さい!」

「包んだお布施の割りにはお経が短いなどと言わないように!」


合掌

Feb 22, 202407:11
田舎坊主の求不得苦<不思議なやすらぎ>

田舎坊主の求不得苦<不思議なやすらぎ>

ある檀家さんの奥さまからお手紙をいただいた。

内容は、三回忌に嫁ぎ先の両親のお墓を建てることをご主人と相談して決め、墓地を整え法事を済ませたとき、いろいろなことが脳裏をめぐったことなどその日の気持ちがしたためられていた。

とにかくお墓を建てることができて嬉しかったこと。そしてとてもありがたく思ったこと。自宅で90歳の天寿を全うし息をひきとった義母に添い寝したこと。

体の冷たさを感じながら実母よりはるかに多くの時間をともにし、味わった辛さ、悲しさ、喜び、優しさ。

いまもそのときの義母の冷たさを思い出し、はかなさや無常を実感しながら「今日一日無事に過ごさせてもらってありがとうございました」といつも言えるよう、優しい気持ちで暮らしたいと心に刻んだこと。しかもそれは不思議なやすらぎだったこと。

そのことをどうしても田舎坊主に聞いてもらいたいと、美しい字で書かれていた。

さらには実家の父親の死、出産途中で亡くなって逝ったわが子、そして兄、義姉など愛しい人たちとの別れの時の気持をダブらせながら、拙書「田舎坊主の愛別離苦」を読んだことが書かれていた。

生きているということは多くの愛しい人たちを見送ることでもあるのだ。

実父を送り、嫁ぎ先の両親を送り、兄姉やさらに子どもまでも見送った。

彼女にとって得られたものといえば、今日一日無事に過ごせたことに感謝できる心と、優しく日々暮らしていこうと誓う心の温かさだった。

もちろんいうまでもないが、見送られた人たちは何一つ得たものはなく、生きているうちに大切なものをただ与え続け、いまは墓石の下でしずかに眠っている。

ところで最近、火葬後の葬送の方法が変わってきている。

テレビでは自然に包まれ四季に咲く花や木の下に遺灰をまく樹木葬のコマーシャルが流れ、インターネットでは「手元供養」とかで遺灰をさまざまに加工する業者がホームページを公開している。

身寄りのない独り身だけではなく、家や家族に縛られることを嫌い墓石を建てることにこだわらず、自然界に散骨をしたり、遺された者もペンダントなどに加工して身につけ供養する人も多くなってきた。

本来、仏壇にせよ墓石にせよ、それはご先祖さまの居ます場所、依り代であるとともに、生きている者にとっての心の拠り所でもあった。

僧侶である私自身も仏壇や墓石を整えたときには不思議な安らぎを感じたことをいまも覚えている。

私たちには人生において突如として予期せぬ災難や苦労が降りかかってくることがある。

そんな時、信仰を持っていようがいまいが、自然に手を合わせ心から祈りたいと思うときがある。そのさきにご先祖がいる場合、相手が墓石になっていようが自然界の花や木の下であろうが、関係はない。

先立っていった愛しい人に「見守っていてね」「助けてあげてね」「力を与えてね」などと手を合わせる姿には、深い魂のつながりを感じずにはいられないのだ。

最近、形式や祀り方を事細かに押しつける人がいるのも事実だ。

しかしとりわけ宗教者がこういうことに固執し、お説教と称して檀家さんや信者さんに畏怖心をうえつけるのもどうかと思う。

「ほとけ」は「ほどける」から生まれた言葉だと聞いたことがある。

仏教の行事が人の心を窮屈にし、縛ってしまうようなことがあるならば本末転倒である。

ましてや般若心経の説いている「空」や「無」を理解し、法事などで読経している宗教者が押しつけているのならばなおさらのことだ。

さて先の手紙の「不思議な安らぎ」の具体的な心のうちは知るよしもないが、先ずは嫁ぎ先の両親のことを第一に思い、決断したことが正しい判断だったのだろう。

そのことがもつれていた心の糸を静かにほどき、何ものも縛らず、何ものにも縛られない穏やかな安らぎを感じたのではないかと、私は彼女の心の置きどころを勝手に想像している。


合掌

Feb 15, 202409:55
田舎坊主の求不得苦<正しい判断>

田舎坊主の求不得苦<正しい判断>

ある人がいってたのだが、「きれい」と「美しい」は違うそうだ。

きれいは表面上見た目だけであって、美しいは内面的なものをいうのだそうだ。

たしかに「わあーきれい!」では内面まで判断していないような気がする。

しかしこの「きれい」や「汚い」についても勝手な判断を加えているのが人間なのだと思う。

たとえば、一度オシッコを入れられたグラスは、どんなにたくさんの洗剤を使って洗われたうえに煮沸を施しても、オシッコを入れられたことを知ってしまうとなかなか気持ちよくそれにビールをついで飲めない。というか拒否してしまう。

たとえそれが完全滅菌され電子顕微鏡で菌が見受けられないほどきれいでもだ。

反面、自分の手にオシッコがかかっても石けんで洗えば「煮沸」をしなくても、その手を使っておにぎりをつかんで食べることができる。

電子顕微鏡的には雑菌満載の手でも自分の手はきれいと思っている。

目の前にフランス料理のコースが運ばれてきた。

最後のメインディッシュは牛フィレステーキだ。

大きめの真っ白いお皿にフィレステーキ、ニンジンのグラッセ、皮付きポテトが盛られている。

ステーキの上にはきつね色に焼いたニンニクの薄切りが載せられ、まわりには煮詰められたソースがあしらわれ、緑濃いクレソンがいっそうメインディッシュを引き立てている。

それは実にきれいで食欲をそそるのだ。

さて、ステーキにナイフを入れソースを絡めニンニクとともに口に頬張る。このまま食べてしまえば美味しい。

でもちょっと待っていただきたい。

口に頬張ったステーキとニンニクを20回ほど噛んで、そのままきれいなお皿のあいた場所に口から出して置いてみる。

 これはきれい?

 それとも汚い?

 もう一度それを頬張れる?

もし「汚い」と思うのであれば、汚いものを口にしてということなのだろうか?

違います。きれいと思って、美味しそうと思ってお口に入れたんだから。

だのに20回程度のそしゃくでそれは汚くなってしまう。

たとえ自分の口のなかから出たものであっても・・・。

目で見て「汚い」と脳に教えてやると、もう融通はきかなくなって「生ゴミ」以外の何ものでもなくなるのだ。

あえて正しい判断をするならば、皿の上に出したものは咀嚼途中のご馳走であって、決して「生ゴミ」なんぞではない。もう一度口にしてもそれは人間の生命を維持してくれる大切な栄養源になりうるのだ。

それにしてもきれいなものを汚いと思い、汚くても自分のものならこだわらず、かといって自分のものでも汚く感じてしまうこともある。

この違いはなんだろう。

正しい判断とはいったいどういうことなのだろう。

合掌

Feb 08, 202407:19
田舎坊主の求不得苦<捨てること、大切にすること>

田舎坊主の求不得苦<捨てること、大切にすること>

最近、ものの片付けや人生の片付けについてたくさんの書籍が出版されている。

タンスの中の衣類の整理や台所の収納からはじまって、財産の整理の仕方、自分の葬儀の段取りまで、片付けなければならないことは多岐にわたるようだ。

 

私も還暦を過ぎたころから少しずつ身のまわりを片付けはじめている。

初歩の「死に仕度」でもある。

私の父は大好きなお風呂のなかで心不全で急死した。(このことについては「田舎坊主の愛別離苦」にも詳しく書いた)

私も同じ心疾患を持っている。しかも35年間薬漬けのからだでもある。病気に限らずいつなんどき無常の風に連れて行かれるとも限らない。

そう考え、そろそろ片付けはじめなければと思ったのだ。


いまのところ私が片付けているのはまさに身のまわりのものだ。

片付けの基準は、次の4点である。

 1.必要ないものは捨てる。

2.やがて必要になるかも知れないと思われるものも捨てる。

3.捨てるときは「おもいっきり」捨てる。

 4.死んでからも必要かと考えてみる。

はじめてスーツを捨てたときのことだ。

私は役員として長く難病患者団体に関わっているが、なかでも全国レベルの役付の際は、毎月のように上京していた。しかし今はそれも退役しほとんどスーツを着る機会もなくなっている。さらにそのときから10㎏ほどダイエットしたこともあってほとんど身に合わなくなっているのだ。

もともと2着なんぼのスーツだ。そんなもの古着として着てもらえそうもないので思いきって捨てることにした。

捨ててみて考えてみると、坊主の衣装というのは便利なもので、葬式にはもちろん出席できるが、結婚式にもその衣装で出席することができる。

スーツを捨ててもそれほど困らないことに気がついた。


私はどちらかというと靴を大事に履く方だが、さらにその際に履いた靴もすべて捨てた。

ちなみに靴を大事にするにも程があるのだ。

もっと早く捨てておけばよかった、ということもあった。


その靴は私のお気に入りで、よく履いた。何度も東京へお伴してもらった。

すでに東京へはあまり行かなくなっていたが、地元で設立した難病患者会役員として県庁へ要望書を提出するため、他の役員を乗せ車で出張したときのことだ。

途中役員の一人を拾うためある駅前に車を止め降りようとしたとき、ブレーキペダルの下をふと見ると黒いボロボロとしたゴミがかなりの量落ちているのだ。手で拾ってみるとゴムのようなプラスチックのようなもので、はじめは何かまったく分からなかった。

確かめようと車を降りたそのとき、私のお気に入りの靴の底が完全に脱落し、一歩踏み出したときには靴底は移動せず地面についたままで、靴をかぶった私の足は裸足で直接アスファルトを踏みしめていた。

そのときの情けなかったこと、恥ずかしかったこと。目から火とはこのことか。


結局、私は県庁に行って役を果たすことができず、その日は他の役員に頼まざるを得なかったうえに、みんなでお茶することもできなかった。

帰宅してからその靴を捨てるとき、私は靴にあやまった。

「そこまでくたびれていたのか、申し訳なかった」と。

靴の底では忘れられない想い出もある。


私は5歳の次女を胆道閉鎖症という難病で亡くしたあと、ある種の虚無感にとらわれた。

そんな折り、ある養護施設の先生から、ショートホームステイ事業のステイホームとして子どもを預かってほしいという話があったのだ。

わが家に来たA子ちゃんは中学校卒業後、その施設を出るという。その巣立ちの前に私の家にやってきた。

先生と2人でやってきて、玄関でピョコンと頭を下げて、

「よろしくお願いします。A子です。」

と、可愛く挨拶した。同行の先生は、

「それじゃ、お願いします。」

と言って帰っていった。

A子ちゃんは黒色の靴を玄関出口の方向に向きを変え、二つそろえて部屋に上がっていった。

「よくしつけられた子だな」と思ったが、そのそろえられた靴を見て、私はその靴のかかとの部分が踏まれていたのが気になった。

というのも私は靴を大事にする方だし、履き方にしても靴のかかとを踏むのは大変嫌いなのだ。靴はちゃんとかかとを立てて履くものなのだと思っているし、かかとを踏むならサンダルでいいではないかと思っている。

大げさに聞こえるかもしれないが、靴を作った人のことを考えたとき、それは大変失礼なことだと思うのだ。

しかも、かかとの部分は製造過程でも一番心を込めて丹念に作らなければならないとも聞いたことがあるからだ。

靴のかかとの部分を踏んで粗末に扱っては申し訳ないような気がするのだ。


しばらく私の子どもとして家にいるあいだに「これだけは言っておかなければ」と、私は彼女の踏まれた靴のかかとを静かにめくりあげて・・・・。

その時、私は思わず、「あっ!」と、息をのんだ。

なんと、めくりあげた靴底はすり減り、ヒール部分を強化するための格子状のものだけをわずかに残して、見慣れた玄関のタイルが見えているのだ。

私は間を置かず、めくりあげたかかとを押し倒し、元の踏まれた状態に戻した。

そのとたん私は胸が熱くなり、涙がこみ上げてきた。

「この子にはこの靴しかないのだ。はじめて行く家で、しかも他人の家に二週間ほど泊まるのに、履いてくる靴がこれしかないのだ。この子には身寄りがないかもしれないし、もちろん小遣いをくれる家族もいないのだ。」

そう思うと、この子が無性にいとおしくなった。

「これだけは言っておかなければ」という思いはすでに消えていた。

この子はもう15歳、花も恥じらう立派な乙女なのだ。

靴のかかとを踏んでいるのは、

「底に穴のあいた靴を見られたくない」という恥じらいもあったのだろう。

「こうすれば、もう少し長く履ける」という思いもあったかも知れない。


あとで彼女からいただいた手紙ではじめて知ったのだが、その靴は離ればなれになったお姉ちゃんからもらった「宝もの」だったそうだ。

それを大切に大切にしているすがたでもあったのに、坊主という立場で、老婆心ながら偉そうに説教しようとした己を心から恥じた。

しかも「宝もののだったのに、かかとを踏んでいてごめんね」

と、お姉ちゃんにあやまったそうだ。

これほどものを大切にする子どもが今いるだろうか。


人生において、捨てるには「捨てどき」があり、大切にするにはそのものの向こうにいる人の心を大切にする深い愛情が必要なのだ。

合掌

Feb 01, 202413:56
田舎坊主の求不得苦<人生坂道を下るがごとし>

田舎坊主の求不得苦<人生坂道を下るがごとし>

私、田舎坊主の誕生日は卯(うさぎ)年の2月22日。

平成22年2月22日と並びのいい59歳も過ぎ、今は還暦も過ぎてしまった。

還暦は文字どおり暦が還ると書く。いわば「もう一度、再スタート」ということなのか。

子どものころ、40歳を過ぎた大人を見て、

「ええ年のおっさんやなあ」と思ったものだ。

そのころは、自分が40歳になるのは、はるかはるか遠い将来のことのように思っていた。

たしかに年月の経過も、今よりずっと遅かったように思うのだが、ところが日々の経過は「加速」されることに気がつきだした。

つまり同じ速さで経過しないのだ。

実際にはそんなことはあり得ないのだが、確かに加速されて日々は過ぎ去っていく。

そのことが分かったのは「ええ年のおっさんやなあ」と思った40歳を過ぎたころからだ。つまり厄年ころからということになる。

人間の生理活動というか生命活動はそのころが頂点なのかも分からない。だからあとは下り坂を転げ落ちるのみ。

おのずと地球上では下りは加速されるので、当然日々の経過は速くなるのだ。

そうあきらめかけたころに還暦がやってくる。


昔は赤いじんべ(チャンチャンコ)と帽子のようなものを贈られて身につけたようだが、私にはまったくそのようなものは届かなかった。

というより、人間というのは幸せな動物で自分が還暦を迎えてみても、どうもそんなに年寄りのような気がしないのだ。

いまだに似たような年の人の方が「自分よりおっさん」と思っている。


還暦とはこの「下りの加速」にブレーキをかけ、一旦止まって「もう一度、再スタート」ということを考えさせてくれる先人の知恵なのかも知れない。

ただ再スタートするにはくたびれすぎていて、うさぎ年といいながらすでに飛び跳ねられず、歩いていてもよくつまずく。それもあまり段差がないにもかかわらずだ。

兎にも角にも、還暦を過ぎてしまった。

ちなみに「兎に角(とにかく)」という言葉は「兎角亀毛」という中国の古い言葉から来ているようで、「うさぎに角、亀の甲に毛がはえる」という、「あり得ないこと」を言ったものだそうだ。

これから先、暦は折り返しても新しくなるものは何もなく、今までどおりどんどん古くなるばかりで、ましてや突飛ないいことは起こらないのである。

無常の風が吹いてくるころになっても「あれがほしいこれがほしい」、「俺のものだ」と、しがみついた生き方だけはしていたくないのだ。

とりあえず還暦は、地道に生きる愚直さを怠らないようにせよという、戒めと受け取ることにしている。


ところで、東京聖路加病院理事長の日野原重明さんは現在100歳(当時)だ。

いま取り組んでいることは自著の絵本から生まれたミュージカルを監督指揮し、子どもたちとともに世界の舞台で上演すること。

もう一つは憲法九条を守る運動だ。

もちろん「いのち」や「生きること、老いること」についての啓蒙は数えきれないほどあるが、この人にしか言えない言葉「100歳からの人生」にはただただ驚かされる。

日野原重明さんの声が聞こえそうだ。

「還暦? 若い!若い!」


合掌

Jan 25, 202408:10
田舎坊主の求不得苦<銭の亡者の最期>

田舎坊主の求不得苦<銭の亡者の最期>

こんな笑い話がある。


 ある男性の人生は「金、銭、カネ、ゼニ」の一生だった。

若くして大金持ちになることを望み、ただただ金儲けのために必死に働き続けたのだ。

ついには周囲の人々から「金の亡者」「あの人はカネしか頭にない」などと言われるようになってしまった。

しかしこの金の亡者も寄る年波には勝てず、自分が動けなくなってきた頃に、儲けたお金も、手に入れた高価な品々もすべてこの世に残していかなければならないことに気づいたのだ。

何一つとして手に握りしめていくことができないことにやっと気づいたのだ。

そこで家族に、「最期に、金の亡者と呼ばれたわしにもみんなに伝えたいことがある」といって、家族にこういい遺した。

「わしが死んだら棺には両脇に手が出るように穴を開けてくれ。そこからわしの手を出してくれ。そうしてみんなに伝えたいのじゃ。

わしは金の亡者とまで呼ばれたが、これこのとおり、何も手にしないであの世に行く。

生きているうちに人に喜ばれるようなカネの使い方をしてほしいのじゃ。元気なころからこれに気づいて、人のために使ってくればよかった。

みんなにしっかりと見てもらってくれ。なにひとつ手にしていないことを・・・」


葬式の日、約束どおり、棺箱の両脇に穴を開け、手を出した姿でみんなとお別れとなった。

会葬に参列した人たちに棺から両手が出た異様なすがたを見てもらった。

遺族は、「お父さんはみんなに金の亡者といわれたけれど、あの世に何も持っていけないことをこうして見てもらって、生きているうちに大事な使い方をするようにみんなに伝えたかったそうです。」と、父の遺言を伝えた。


果たして参列し別れを告げた人たちは故人の遺言どおり受け取ってくれたのだろうか?

残念ながら、お別れをした人たちから口々に話された言葉は、

「金の亡者だけあって、死んでもまだ金が欲しいようで、棺から手を出していたなあ」だった。

いくら最期に悟った真理であっても、素直に受け取ってもらえないのは淋しいことだ。

その原因はいったい何なのか。

いうまでもなく、それは彼の人生そのものが「捨てる人ではない」生き方だったからだろう。

笑い話とはいえ、「生き方」こそ大切だという戒めでもある。


自分ががんばって一生懸命必死にはたらいて得たものはすべて「自分のもの」と誰もが思っているが、結局それも「空」なるものなのだ。

しかし「空」なるものとはいえ、お金はなかなか「捨てる」事はできない。

しかし人は人生においてときどき「捨てる」練習をしているのではないだろうか。

それは寺や神社での「さい銭」だ。

寺や神社に投げ入れるさい銭は決められた金額でもなければ価格表もない。人に強要されたものでもない。

願いを込め感謝の心を込め、それまでは「自分のもの」であったお金に対する執着をはなれ、「捨てる」ことを練習していることにほかならないのだ。

しかも「捨てる」のだから、ゴミ出しをしたゴミの原価を考えないように、本来「いくら」捨てたのか忘れてしまう必要がある。

ところがそれでも、

「おい、神さんか仏さんよ、いつもなら100円のところ、きょうは太っ腹で1000円もさい銭入れたぞお。しっかりご利益くれよお!」

と、捨てたものの額にこだわり、捨てながら欲深いことをついつい叫んでしまうのだ。

私を含め凡人は、「自分のもの」となかなか執着を断つことはできないのだ。


だからこそ、人生の折々に「捨てる」練習を続けないと、なかなか上手に捨てられない。

ましてや「喜んで捨てる」ことができるようになるためにはなおさら練習が必要なのだ。

合掌

Jan 18, 202409:03
ラジオ寺子屋インタビュー<難病と関わるようになった田舎坊主>

ラジオ寺子屋インタビュー<難病と関わるようになった田舎坊主>

2020年のFMはしもとで放送された「ラジオ寺子屋高野山」という番組での私どものインタビューです。

難病と関わるようになった田舎坊主の話を娘の純令とともに語っています。

インタビュアーは高野山青巌寺ご住職高井知弘様です。

Jan 11, 202440:43
ラジオ寺子屋インタビュー<坊主になりたくなかった田舎坊主>

ラジオ寺子屋インタビュー<坊主になりたくなかった田舎坊主>

2020年のFMはしもとで放送された「ラジオ寺子屋高野山」という番組での私どものインタビューです。

坊主になりたくなかった田舎坊主のホンネを娘の純令とともに語っています。

インタビュアーは高野山青巌寺ご住職高井知弘様です。

Jan 04, 202438:58
田舎坊主の求不得苦<努力の成果>

田舎坊主の求不得苦<努力の成果>

子どものころ、努力すれば必ず報われると教わった。願いをかなえるには努力するしかないのだともいわれた。

とくに学校の先生からよくいわれた覚えがある。スポーツでも勉強でも努力しなければ上手にはなれないし、学力もつかない。

スポーツ選手になる夢を持っているならなおさらのことだ。

有名大学に入って国家公務員や医師などの職業を手にするためにはなおさらのことだ。

 しかし、はたして努力に努力を重ね抱いた夢一筋にその成果を得られる人はどれだけいるのだろうか。むしろその途中で挫折したり、進路を変更せざるを得なくなって、当初の夢とはまったく違った人生を送っているという人の方が多いのではないのだろうか。

 私の妻は学生時代にはバレーボールに情熱を注ぎ、社会人になってからは女性としてはまだ少なかったゴルフに趣味を見いだし、週末はコースに出て仲間と楽しんだ。また若いころから日本舞踊を習得し、名取りとして大きな舞台に立ったこともある。さらにご詠歌舞踊や茶道、三味線もたしなんだ。

 時間に余裕ができれば、家で教えごとをしながら外国旅行などで視野を広めたい将来の夢をもっていた。

 しかし53歳のころから体調を崩し、大学病院で診察を受けた結果、パーキンソン病と診断されたのだ。

 だんだん病状が進むとともに、若いころに考えていた踊りも旅行もましてやゴルフもできなくなってきた。

 当初、妻は「病気で何もかも取り上げられてしまった」と嘆いた。

 しかしいま、同じ病気をもつ人たちと交流し、「簡単な踊りを教えてね」といわれ、自分のリハビリもかねて仲間たちのためおけいこの日々を送っている。

その妻もすでに旅立ちました。

 いまから25年前、私がある進学高校で非常勤講師を務めていたとき、一つの学年での授業は読み聞かせにしようと決めた。

そのときの本は星野富弘さんの「愛、深き淵より」だった。

星野さんはスポーツマンで体育の教師を夢見て努力を重ね、大学卒業後念願の体育教師として中学校に赴任して二ヶ月後に、大好きな体育の授業で生徒に手本を見せるために跳んだ跳び箱から落下。頸椎を損傷して手足をまったく動かせなくなってしまったのだ。

 やがて口に筆を加えて絵と詩を描くようになり、やがてその絵と詩は多くの人に感動を与え勇気づけ、いまでは自らの富弘美術館に来場者の足が途切れることはないという。

 わが家にもどこからか毎年末に星野富弘さんのカレンダーが届けられる。

 人生は多かれ少なかれうまくいかないものだと思っておいてまちがいはないのだ。

それにしても人は人生においてどれだけの努力をするのだろう。

「はじめに」でも書いたように、それは何かを得るための活動としての努力ではないのだろうか?

 職業であったり、家庭であったり、マイホームであったり、愛する人であったり、身を飾るものであったり・・・。

 そしてそれを「しあわせ」と思いながら。

しかし、人生そのときどきに努力したその成果は、ほんとうは職業や家庭やマイホームや愛する人や身を飾るものではなく、人がそれら全てを失ってしまった時、どのような心を持ち、どのような行動をおこし、どのように生きていくのか、その強さを鍛えたのかどうかということではないだろうか。

 もちろん人生において、すべてを失ってしまうような大災害や事故に遭遇しないに越したことはいうまでもないが・・・。

人が生きていくということは、何かを得るために努力と失敗を何度も繰り返しながら、予期せぬことで「無」になったときに生きていくための心の強さを鍛える練習をしているように思う。

 言い換えれば、私たちの努力で得るべきものはこの「精神的な成果」だけなのだと、大災害の現状を見るたび感じるのである。

 そして「無になったときに生きていく心の強さ」という成果は、やがてその人の次の代に引き継がれるのだ。

 それは心の持ち方や生き方やたくましさを手本とし、その強さとがんばりのおかげで、遺されたものが平和な日々をおくることができていることに感謝し、自分もまたそんな生き方ができるように努力していくのだろう。

 このように世代を超えて、いきいきと輝いていくものこそ努力の成果なのではないだろうか。

合掌

Dec 28, 202310:49
田舎坊主の求不得苦<諸法は空相>

田舎坊主の求不得苦<諸法は空相>

般若心経には「諸法空相 不生不滅 不垢不浄 不増不減」という箇所がある。

大意は、「すべての存在は空なのです。すべての存在には実体がないということです。ですから生滅もなく、浄不浄もなくまた増減もないのです。」

分かりやすくいえば、生滅がないということは、生じることも滅することもなく、それは変化している現象に過ぎない。浄いとか不浄というのは人が勝手に判断して思い込んでいることであり、増えたり減ったりするのも「水」と「氷」と「水蒸気」の関係のようにただ姿を変えているに過ぎないのだ。

さらに、すべては空なのだから「是故空中 無色無受想行識 無眼耳鼻舌身意 無色声香味触法 無眼界乃至無意識界」と経中解説している。

大意は、「この故に、空の中に色なく、受想行識なく、眼耳鼻舌身意もなく、色声香味触法もないのです。眼界もなく、および意識界もないのです。」

要するに、したがって実体がないのだから、「色受想行識」という物質的存在も精神作用もなく、「眼耳鼻舌身意(六根)」という感覚器官もなければ「色声香味触法(六境)」という対象世界もない。そして感覚器官とその対象との接触によって生じる「眼識界、耳識界、鼻識界、舌識界、身識界、意識界(六識)」とよばれる認識もない。

分かりやすく言い換えれば、人は好ましいモノは取り入れ、いやなことは避け、個人の判断で多くの情報を取捨選択しているというのだ。

老子十二章においても次のようなことが書かれている。

『五色は人の目をして盲ならしめ、五音は人の耳をして聾ならしめ、五味は人の口をして爽ならしむ。馳騁田猟は人の心をして狂を発せしめ、得がたきの貨は人をして行を妨げしむ。これをもって聖人は腹のためにして目のためにせず。』


分かりやすくいえば、さまざまな色や音は人の目や耳をくらませ、美味しいものばかり食べていると人の味覚は鈍くなる。ギャンブルなどのように成果ばかりを追って猟のようなことをしていると心まで狂ってしまう。貴重で高貨なものは人の行動を誤らせる。だから正しく悟った人は見た目や外面ではなく内面的な充足を求めて行動するのだ。


さらに、和歌山県湯浅町生まれで華厳中興の祖、明恵上人の「明恵上人伝記」には、

『髪を剃れる頭も其の験(しるし)とするに足らず。

法衣を着せる姿も其の甲斐更になし。

この心押さえ難きによりて、弥(いよいよ)形をやつして人間を辞し、志を堅くして如来の跡を踏まんことを思う。

然るに眼をくじらば聖教を見ざる歎きあり。

鼻を切らば即ちすす鼻垂りて聖教を汚さん。

手を切らば印を結ばんに煩いあらん。

耳を切るといえども聞こえざるべきに非ず。

然れども五根の欠けたるに似たり。

去れども片輪者にならずば、なおも人の崇敬にばかされて思わざる外に心弱き身なれば出世もしつべし。』

 つまり、

たとえ髪を剃り、法衣を着ていてもそのことで悟れる坊主かというとそうではない。

そのように思い込んでくると、ますます姿を人間らしさから離れ仏道に専念し、お釈迦さまのあとを歩みたいと思う。

だからといって、目をつぶしてしまってはお経が読めなくなる。鼻を削いでしまったら常に鼻水が落ちて尊い経典を汚してしまう。

手がなくなれば印を結べなくなってしまう。

しかし、耳を切り取っても音が聞こえないわけではない。

五根の一つを欠いたようにはなるが、そうならなくては、やはり人から受ける尊敬のためにごまかされて、心の弱い男であるから世間的な出世を望んでしまうかも知れない。


般若心経が説いている「諸法空相」のように、老子にしても明恵上人にしても、本来「空」であるにもかかわらず、私たちの心のありようや置かれた状況によって、そのものに何らかの意味を持たせ、さまざまな価値判断を加えているのはまさに個人の心そのものなのだ。


合掌

Dec 21, 202310:52
田舎坊主の求不得苦<仏の知恵>

田舎坊主の求不得苦<仏の知恵>

般若心経262文字のなかに「無」「空」「不」という文字が36文字含まれている。

これらの文字は、言わばネガティブで否定的で後ろ向きなものばかりである。決して夢や希望や楽しみというものを表しているとは思えない。

般若心経の冒頭を現代語で訳すると、「観自在菩薩は物質も精神も含め、この世の全てのものは『空』であると観て、あらゆる悩みや苦しみを超越された」と、はじめに書かれている。さらに、「得られるものがないので、全てのものにこだわりがないのです」と書かれている。

私たちが「自分のもの」と思っているものを失った時、悲しみや悔しさが生まれる。

しかし般若心経では「自分のもの」は本来、自分のものでもなく、さらにそれ自体「空」であり「無」であるというのだ。

そのように観念(心からそう思う)することによって、「苦」を乗り越えられると書かれているのだ。

たしかに何もないときにこそ、もののありがたみが分かるし、なくしてはじめてそのものの価値が分かるときがある。

私が大学を卒業して、坊主になることを覚悟したとき、あることをしてからでないと法衣を着て法事などには行けないと考えていた。

それは断食である。なぜ断食かというと、私はほんとうの空腹やひもじさというものを感じたことがなかったのだ。たしかに小坊主時代にはほとんどご馳走と呼べるものは食べられなかったが、それでも白いご飯だけはタップリあった。おかずはなくても空腹になることはなかった。むしろそのころの方が太っていた。

ところがその当時法事に来る大人の人たちは、戦中戦後の食糧難の時代を乗り越えた人ばかりなのだ。

小学校の校庭にまでサツマイモを植えそれを主食とし、しかしイモだけでは足らず、イモの蔓まで食料にしたというのだ。

若造の私はそんなひもじく辛い時代を生きてきた人たちよりも上座に座り、偉そうに法事を勤めることはできないと思ったのだ。

せめてほんとうの空腹だけは経験しておこうと思った。

決心して行ったところが信貴山断食道場だ。

ほとんどの人が内臓の調子を整える目的のために来ていた。

その道場では最長の断食期間が一ヶ月。そのうち本断食とよばれる絶食期間は一週間と決まっている。しかし私はどんなことが起こっても自分が責任をとるということで無理をお願いし、二週間の本断食とさせてもらうことにした。

はじめの一週間は減食期間、次の二週間が本断食、残りの一週間が復食期間と決まった。

本断食中には天然木の天上板がまるで精肉を並べたように見えるほど空腹にさいなまれた。

いよいよ本断食が終わり、減食を開始から22日目復食がはじまり、久しぶりに食べものを口にすることができるのだ。

食べものといっても一日2杯のおも湯である。

ところが、そのおも湯の、美味しいこと!美味しいこと!

おも湯はただのお粥の汁なのに、美味しいこと!美味しいこと!涙が出るほど。


このときに思った。空っぽだったからこそ、ただのおも湯に豊かで深い味わいを感じることができたのだと。

「空」や「無」こそほんとうの価値や感謝、ありがたさを感じることができるのだと。

般若心経は、単なるお唱えする「お経」だけではなく、学んだうえで「実践するお経」と言えるのかも知れない。

どんな災難や苦難が私たちを襲って「無」になっても、それで命を奪われてしまわない限り、それを乗り越えて生きていかなければならない。

そしてそのときになってはじめてほんとうの価値や感謝、ありがたさを発見するのかも知れない。

262文字中、36文字もの「無」や「空」や「不」は、森羅万象すべてのものの本来の価値を悟らせるために、仏の知恵として般若心経が説いていることなのではないだろうか。

合掌

Dec 15, 202309:24
田舎坊主の求不得苦<お布施は生活の糧>

田舎坊主の求不得苦<お布施は生活の糧>

私は男兄弟三人の末っ子として寺に生まれた。

物ごころついたころから住職である父親が持ち帰ったお布施を開けるのが楽しみだった。とくにお盆の棚経の時は頭陀袋いっぱいに入ったお布施の包みを嬉々として開けていた。今考えると、なんと硬貨が多かったことか。

最高額は500円札(当時はまだ硬貨ではなかった)でそのほかは50円玉や10円玉がほとんどを占めていた。

父は役場勤めとの二足のわらじだったが、なるほどこれでは寺の収入だけで三人の男の子を育てることはできなかっただろう。

ちなみに今でもお盆にこの田舎寺で行われる施餓鬼供養のお布施には10円玉五個をセロハンテープで一列に貼り付けて半紙に包まれている場合も少なくない。ほかの硬貨の場合でも同様で、中身が偏らず包みからこぼれないようにしてくれているのだが、テープをはがすのが大変なのだ。

そろそろ硬貨から紙幣にグレードアップしてもらいたいと思っていた。

 

それにしても当時、多量の硬貨のお布施は、田舎の山坂道を歩きながら檀家まわりする父にはさぞかし重かったに違いない。

子どもの私は当時はそんなことも考えず、駄賃として10円玉や50円玉のお小遣いをもらえるのが嬉しかった。

母は「このお布施のおかげで生活できるんやで」と私たちを諭した。


お寺はお布施で生活し、檀家さんはお墓参りや法事の代価として参ってくれた坊さんに支払うものだと子どものころは考えていた。

というより坊主を生業とするようになっても、しばらくのあいだは正直そう考えていた。そしてお布施はいただくものであり、お布施する立場には一生ならないと考えていた。

かつて何度かインドに旅行したとき、現地の子どもたちに「バクシーシ!、バクシーシ!(喜捨せよ、喜捨せよ!)」とまとわりつかれる経験をして以来、「有る者が無い者に喜捨する」ということは「自分のもの」という執着を離れ喜んで捨てていくという物の再分配であり、相手に得る喜びを分け与え、得た者は捨てた人の心の温かさに触れるのだと気づくまでにずいぶん年月を要したように思う。

人は自分の好みのものであっても、それがたくさんあれば、言い換えれば多く「存在(そんざい)」すれば、往々にして粗末な扱いをしてしまう。

その行為こそ「存在(ぞんざい)」であり、もののありがたさも、得た喜びも、感謝も、おかげも忘れてしまっている。

そんな新鮮なありがたさや感謝を得るためにも「捨てる」ことを実践し、「無」「空」になることを教えてくれているのが般若心経ではないだろうか。

合掌

#田舎坊主

#紀の川市不動寺

#田舎坊主の読み聞かせ

#スピリチュアル

Dec 11, 202307:10
田舎坊主の求不得苦<人の一生>

田舎坊主の求不得苦<人の一生>

人は生まれ、親の愛情を一身に受けて育っていく。

這えば立て、立てば歩めと可愛がられ、保育所に入ってはじめての共同社会生活に仲間入りする。やがて小学校に上がる。入学すれば先生から多くの知力、体力を授けられ、中学校、高等学校に進学する。

そしていよいよ社会人として生きていくため未来を見通して大学を選び、ひたすら勉学に努めるのだ。学を修め、就職活動の末、大学卒業とともに自ら希望する職種を選び、生活を支える職業に就いていく。

着るものは学生服からスーツへと変わり、休日にはおしゃれな洋服や持ち物を身につけ、自家用車を手にする人も多くなる。

やがて結婚し家庭を持ち、子どもにも恵まれ、ローンで新築のマイホームを手に入れる人もいるだろう。

働き盛りを過ぎ、やがて子どもも自立すれば孫と遊ぶことが何よりの楽しみとなる。

その孫も成長すれば、老夫婦は終の棲家を考え始めるのだ。

人は人生においてどれだけの喜怒哀楽を経験するのだろうか。

共同生活になじめず、ぐずって泣いてお腹が痛くなって、時にはなだめすか され、しかられ励まされた子どものころ。

先生のおはなしについていけなかった授業、いくらがんばってもかけっこで 負け続けた小学生のころ。

初恋に敗れ授業が頭に入らず、部活に明け暮れた中学生のころ。

進路が決まらずただ闇雲にアルバイトと受験勉強に明け暮れた高校生時代。

将来の姿が描けず単位を取るためだけに講義に出ていた大学時代。

就職が決まれば「こんなはずじゃなかった」と先輩や上司の顔色をうかがい ながらのサラリーマン生活。

結婚が決まり新居も手に入れ、ローン返済のため必死で働いた。

子どももできればなおさら家族を守るため責任も重くなってくる。

子どもも大きくなって受験時期になれば広い家も必要になってくる。

子どもは親からどんどん離れていくような気がして一抹の寂しさも、空しさ も感じる熟年期に入ってくる。

子どもが独立していくころには夫婦二人の生活も、以前想像していたような 旅行や趣味の時間が思うようにとれなくなる。

身体は病気がちになり病院通いの時間の方が多くなる。

大病を患うこともある。

事故に遭って大けがをすることもある。

家族を失うこともある。

しかし反面、言葉に尽くせない大きな喜びや幸せを味わうこともある。

それが人の一生なんだと思う。

Dec 06, 202307:13
田舎坊主の求不得苦 <はじめに>

田舎坊主の求不得苦 <はじめに>

はじめに

 仏教における「正しい実践」とは、正しいものの見方・考え方・おこない・努力・言葉使いなどの「八正道(はつしようどう)」とよばれるものであり、「苦」の原因とは「ものごとに対する執着」であるとされている。その「執着」を取り除くことによって解放される苦しみが、いわゆる「四苦八苦」だ。

 生・老・病・死の四苦と愛別離苦(別れの苦しみ)・怨憎会苦(いやな者とも付き合わなければならない苦しみ)・求不得苦(欲しいものが手に入らない苦しみ)・五蘊盛苦(心身が盛んなゆえに苦しいこと)の四苦をあわせて「四苦八苦」といい、一般に、人間が生きていることによって苦しみ、難儀することが多い場合によく使われる。

 この四苦八苦のうち、「求不得苦」はもっとも人間の空しさを表しているような気がする。

 「求めても得られない苦しみ」とは、欲しい欲しいと思ってもなかなか思うように手に入れられない、心の葛藤のことなのだろうか。

 子どものころオモチャを買い与えられ、小学校に上がれば自転車を買ってもらい、高校生になればバイクを買ってもらい、大学を出るころにはアルバイト料を貯め、中古の軽四を買い、働き始めてしばらくすればローンを組んで乗用車を買い、愛しい恋人ができ結婚し、ローンを組んでマイホームを手に入れ、やがて可愛い子供が生まれ、人は「幸せ」を感じるのだ。

 そのときどき、欲しいものを手に入れてきたような気がする。

 人生は好みのものを手に持ち、身の回りに置くために働くということなのだ。

 しかし、若くても老いていてもいい、人生の折々にあなたがはじめて手に入れた品々は今でもあなたのそばにあるのだろうか?

 そして手に入れた喜びは今もあって、それを大切にしているのだろうか?

 ともすれば、今は物置の中にも残っていないのでは・・・。

 物も人も心も移ろいやすいものだ。「移ろい」は「空ろい」でもある。

 本来「空」なるもののために生きていることに気付きなさいとの教えなのだと思う。

 ましてや人は必ず死ぬのだ。そんなことは誰でも分かっている。

 無常の風が吹きくれば、今まで「自分のもの」と思っていたものを否応なく「この世」という所に置いていかなければならない。もちろんこの「自分」も「空ろ」なのである。

 そう考えてみると、「求不得苦」は自分が手に入れたときの喜びを、「他」にも与えてそれを喜びとする、いわば執着しない生き方の戒めでもあり、捨てる方法としての「布施」も大切な生き方なのだという仏教の教えなのではないかと思うのだ。

合掌

12月からのシーズン4の読み聞かせ法話の本は

2013年に出版した「田舎坊主の求不得苦」です。

・・・・・・・・・・・・・・・・・

田舎坊主シリーズ

「田舎坊主の合掌」⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠https://amzn.to/3BTVafF⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠

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Dec 03, 202307:39
シーズン4は「田舎坊主の求不得苦」です

シーズン4は「田舎坊主の求不得苦」です

田舎坊主の読み聞かせ法話は次回からシーズン4に入ります。

読む本は2013年に出版した「田舎坊主の求不得苦」です。

求めても得られない苦しみとは?

「移ろい」は「空ろい」ということ?

あっちに行くのは「明日かもしれない」との思いで生きること。


引き続きお聴きください。

合掌

Dec 02, 202301:02
田舎坊主の愛別離苦<おわりに>ー行ってらっしゃいー<最後に>

田舎坊主の愛別離苦<おわりに>ー行ってらっしゃいー<最後に>

田舎坊主の愛別離苦

まとめ編

<おわりに>

・行ってらっしゃい

<最後に>

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7月からのシーズン3の読み聞かせ法話の本は

2009年に出版した「田舎坊主の愛別離苦」です。

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田舎坊主シリーズ

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Dec 01, 202316:13
田舎坊主の愛別離苦<花見宴のあと>

田舎坊主の愛別離苦<花見宴のあと>

田舎坊主の愛別離苦

まとめ編

<花見宴のあと>

・夜桜

・突然の遷化

・信者からいただいた弔句

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7月からのシーズン3の読み聞かせ法話の本は

2009年に出版した「田舎坊主の愛別離苦」です。

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Nov 24, 202316:19
田舎坊主の愛別離苦<幸せとは>

田舎坊主の愛別離苦<幸せとは>

田舎坊主の愛別離苦

まとめ編

<幸せとは>

・田舎坊主の再婚

・半生は二人で生きる

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7月からのシーズン3の読み聞かせ法話の本は

2009年に出版した「田舎坊主の愛別離苦」です。

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Nov 17, 202308:56
田舎坊主の愛別離苦<5年と1ヶ月と1週間>

田舎坊主の愛別離苦<5年と1ヶ月と1週間>

田舎坊主の愛別離苦

まとめ編

<5年と1ヶ月と1週間>

・次女の闘病

・棺に納めた手紙

・看病の果て

・・・・・・・・・・・・・・

7月からのシーズン3の読み聞かせ法話の本は

2009年に出版した「田舎坊主の愛別離苦」です。

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Nov 10, 202317:26
田舎坊主の愛別離苦<尊敬する老僧>

田舎坊主の愛別離苦<尊敬する老僧>

田舎坊主の愛別離苦

まとめ編

<尊敬する老僧>

・誰からも慕われたN師

・寺を継ぐよ

・息子の死

・ご子息への諷誦文

・老僧の遷化

・老僧への諷誦文

・・・・・・・・・・・・・・

7月からのシーズン3の読み聞かせ法話の本は

2009年に出版した「田舎坊主の愛別離苦」です。

・・・・・・・・・・・・・・・・・

田舎坊主シリーズ

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Nov 03, 202322:38
田舎坊主の愛別離苦<栄枯盛衰は世の習い>

田舎坊主の愛別離苦<栄枯盛衰は世の習い>

田舎坊主の愛別離苦

まとめ編

<栄枯盛衰は世の習い>

・欄間職人として

・「おやっさん、おおきに」

・諷誦文

・・・・・・・・・・・・・・

7月からのシーズン3の読み聞かせ法話の本は

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Oct 27, 202320:36
田舎坊主の愛別離苦<父が逝き、母も逝き>

田舎坊主の愛別離苦<父が逝き、母も逝き>

田舎坊主の愛別離苦

まとめ編

<父が逝き、母も逝き>

・こころ疲れたY子さん

・ご主人の死

・Y子さんの死

・子どもたちに贈った説話

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Oct 20, 202316:35
田舎坊主の愛別離苦<よき理解者>

田舎坊主の愛別離苦<よき理解者>

田舎坊主の愛別離苦

まとめ編

<よき理解者>

・田舎坊主が公民館長になった

・Mさんのこと

・ご家族に贈った讃嘆文


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Oct 13, 202321:23
田舎坊主の愛別離苦<突然の別れ>

田舎坊主の愛別離苦<突然の別れ>

田舎坊主の愛別離苦

まとめ編

<突然の別れ>

・医師不足

・華岡青洲と仁術

・ご家族に贈る讃嘆文


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Oct 06, 202324:16
田舎坊主の愛別離苦<戦争では平和になれない>

田舎坊主の愛別離苦<戦争では平和になれない>

田舎坊主の愛別離苦

まとめ編

<戦争では平和になれない>

・私は戦争経験なし

・最後の慰霊祭表白文

・憲法9条を考える

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Sep 29, 202324:56
田舎坊主の愛別離苦まとめ編<はじめに>

田舎坊主の愛別離苦まとめ編<はじめに>

田舎坊主の愛別離苦

まとめ編

<はじめに>

Sep 22, 202311:51
シーズン3「田舎坊主の愛別離苦」のまとめ編です。

シーズン3「田舎坊主の愛別離苦」のまとめ編です。

シーズン3「田舎坊主の愛別離苦」のまとめ編です。

Sep 19, 202300:47
田舎坊主の愛別離苦<終わりに>ーいってらっしゃいー

田舎坊主の愛別離苦<終わりに>ーいってらっしゃいー

ある檀家さんのご先祖の月命日にお参りしたとき、当家の奥さんから突然尋ねられた。

「院家はん、私の実家の母が去年の年の暮れ12月31日に死んだんですわ。2月3日に町内会の旅行で出雲大社へ行くんやけど、行ってもええかなあ。仕上げ(忌み明け)は1月31日に済ませるんやけど49日経ってないし、どないしようかなあ思うてますねん。旅行行ってもええやろか?」

奥さんは続けて、「『行けるとき行かな。行こう行こう。気になるんやったら出雲大社の鳥居をくぐらんだらええがな。』って、友だちも言うてくれるんやけど。ほんまに迷うてますねん。院家はん、どないしたらよろしやろ?」と聞いてくる。

当地では、死人を出したあと49日の仕上げの法事を済ませるか、または百日忌を済ませるまでは、神社に参ってはいけないという迷信というか風習があるのだ。

 *

余談だが、49日の仕上げ法事が三ヶ月に渡ってもいけないという風習もある。これは、始終苦が身に付く(四十九が三に月)という単なる語呂合わせから生まれた迷信だ。

そしてもう一つの理由は、かつて「買い物帳」を使った「盆暮れ」年2回だけの支払い商習慣があった頃、葬式費用の種々の支払いに限っては盆暮れまで間を置かず、3ヶ月以内に支払いを済ませたことから、49日の仕上げ法事までもが3ヶ月に渡ってはいけないということになったのだ。

ちなみにこの葬式費用の支払い習慣は今でも「即日現金支払い」というかたちで残っていて、当地ではほとんどの檀家がこの風習を守っているようだ。

月末に亡くなった人は必ず49日目は3ヶ月にかかるため、私は、「49日お祀りしてあげたいと思うなら、亡くなっていく人に『月末に死んだらあかんで、もうちょっと我慢して月初めに死ぬか、又は、ちょっと急いで月の中ごろまでに逝かなあかんで』と段取りを説明しとかなあかんがな」と、3ヶ月に渡る渡らないで迷うことのないよう、折に触れて笑い話にして話してる。

 *

さて出雲大社方面町内会旅行の話にもどるが、死人を出した家の人が一定期間神社にお参りできないというのは、明治初年の「廃仏毀釈(はいぶつきしやく)」以降の新しい風習だ。それ以前は神仏習合型の「仲良き」関係で全くそんな風習はなく、これ以降、「神」の側からは、死人を出した家はその家人を含めて「穢れ(けがれ)」ているとして、「神」に参ることを厳しく拒否したのだ。

そして、それまで神も仏も共にお祀りしてきた庶民大衆は、「神」に嫌われたくないと思い、この後も共に祀りたいとの思いから、神社に参ることを遠慮しただけなのだ。これゆえ、死の宣告を受けた後、葬儀の支度の第一番に神棚に白紙を貼り付け、「神さま、これからのことは暫く見ないことにしてね」と気をつかって、目隠しをしている。

しかし本来、神道にも「死」を認めなければならない現実はあるし、死に際したセレモニーも厳然として存在するのは確かなことなのだ。

ところがそこはうまくできていて、神道での「死」は「格が上がる」そうだ。

本来、決して避けて通ることのできないことである「死」は、何ものも蔑視してはならないし、私は愛しい家族の死ほど多くのことを教えてくれる崇高な瞬間はないと思っている。

 

私はその奥さんに

「あんまり気にせんと行ったらええんとちがう、友だちも勧めてくれてるし、行けるとき行っとかな、後悔するよ。気になるんやったら鳥居くぐらんと、お尻を向けて、拍掌をしないで行ったらどう。それで納得するんやったら、その神様も大したことないんとちがう?」と答えておいた。

そして廃仏毀釈について少し触れて書いた私の既刊書『田舎坊主のぶつぶつ説法』を一冊売りつけて帰ってきた。

 *

ところで日本では(日本だけではないが)かつて、死や血を穢れと捉えてきた歴史がある。しかもその死や血を扱う仕事を生業とする人たちをも「穢れ者」として差別してきた。同様に「月経(生理)」のある女性は穢れているとされ、ひいては女性そのものを差別してきた。 

この流れから、国技である相撲の土俵に女性は上れなかったり、宗教においても修業の邪魔になるということで「女人禁制」などと女性差別を行ってきた。

これらのことは徐々に解放されてきているが、今でもこの田舎では生理中の女性が神社に参らない、参ってはならないという考え方が残っているのも事実だ。

永い歴史のなかで根付いてきた慣習は、その意味や経緯を知ると知らざるに関わらず、一朝一夕には変えがたいものだとつくづく思うのだ。

 

本来、人間には「浄(きよ)い」も「穢(けが)れ」もなく、ただただ尊い存在なのだ。

お釈迦さまは生後まもなく七歩歩んで「天上天下唯我独尊」と高らかに宣言された。

まさしく人間一人ひとりがかけがえもなく尊いものなのだ。この尊き人間が子孫継続の生理的機能充実の証として女性には生理があり、命の営みの終焉として「死」があるのだ。

極言すれば、女性の生理がなかったら、私たちが生きて感じる出産、発育、学問、結婚、家庭等々の幸せや感動はないだろうし、死がなければ感じ得ない「生きるありがたさ」「命の尊さ」「愛情の重み」「大切な人の存在」などという最も人間として豊かな部分を享受することはないだろう。

「死」は数え切れないほどの尊い教えを私たちに与えているのだ。その意味では、何ものも「死」や「女性」を差別的に扱うことは許されないし、ましてや宗教(者)がこれらに加担することは断じて許されるものではない。

 *

ちなみに出雲大社は縁結びの神とか。嫁ぎ先の両親を送り、実家の母を送り、働き者のせがれはよき嫁をめとり、二人の可愛い孫はすくすく育っている。近くには実母を送ったことを知っていながら町内会の旅行に誘ってくれる良き友がいる。

これ以上の幸せはあるだろうか。

そう考えたとき、出雲大社の神前で「良き縁ありて今ある幸せ」を感謝しながら手を合わせても、「神」は決してお怒りにはならないだろう。神はそんなに度量は狭くないだろう。

母との「愛別離苦」は今を大切にし価値ある生き方を教えてくれた、最も貴重な経験だったのだ。

送った母はもちろんのこと、自分を取り巻く多くの人々に深い感謝の念をもち、今、生きているこの時期を大切に大切に生きていけば、それで充分でしょう。

「行ってらっしゃい、行ってらっしゃい、町内彼の旅行いってらっしゃい」


<最後に>

本書にはいくつかの諷誦文(ふじゅもん)を記していますが、かつてはほとんどの葬儀で、このような諷誦文が導師によって読まれました。

 今、自宅ではなくセレモニーホールなどでの葬儀が増えてくると、葬儀自体が簡素化され、むしろ火葬の時間にあわせる必要に迫られ、以前の作法や儀式もできなくなってきました。そして諷誦文を読み上げるような葬儀はほとんどなくなりました。

諷誦文には故人の人となりや、業績、人徳などが読み込まれ、葬儀の風格のようなものを感じさせてくれると同時に、ご家族の感じ方とは違った故人に対する社会の視線から読み上げられることも多く、故人の新たな一面を知らしめるということで、ご家族から感謝されることも多々ありました。

やがて葬儀で諷誦文を読み上げることがなくなってしまうかも知れないという危惧を抱きながら、現在、私のお寺では院号戒名をつけられた場合、その説明を兼ねて本書に記したような短い文を添えてご遺族にお渡ししています。

 読者の皆さまには、本書の拙い諷誦文や讃嘆文から故人の人柄をお読みいただければなによりです。

 そして「いつまでもある」「いくつでもある」という存在(ぞんざい)な生き方を自ら戒めながら本書を閉じたいと思います。

本書は事実を基にしていますが、一部設定を変更しています。

 本書に記した方々の御霊(みたま)に拙書を捧げるとともに、心からご冥福をお祈りいたします。

合掌

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Sep 16, 202316:13
田舎坊主の愛別離苦<花見宴のあと>ー信者からいただいた弔句ー

田舎坊主の愛別離苦<花見宴のあと>ー信者からいただいた弔句ー

桜の様子を目の当たりにしたとき、この地方に所縁ある西行法師の名句が偲ばれた。

  願わくば 花のもとにて春死なむ

  その如月の 望月のころ

西行法師がこう詠んだのはー

「死ぬときは春がいい、桜の花の咲く春がいい。そしてできるものなら、旧2月の満月のころがいい。それはお釈迦さまが入滅されたのが旧2月15日だから、その日に死にたい」と考えていたというが、父親の死は、4月7日で翌8日はお釈迦さまの誕生日「花祭り」だ。

「わしはあす釈迦に生まれ変わるぞ」とのメッセージと、私は受けとめている。


花見宴の翌日の父親の突然の死は、「刹那刹那(せつなせつな)を一生懸命生きろよ、今しかないぞ」と、命のはかなさと今を生きることの大切さを、身を以て教えてくれたものと考えている。


父親の葬儀に際し、句をたしなむ信者さんから、次のような弔句を献読いただいた。

 「献句」薮添真沙子氏

院主逝き 桜散華の ただ中に



 「名僧の冥福祈りて三句」 藪下道子氏

雪柳 蓮翹 桜の満開に 

  花に包まれ 老僧の逝(い)く

花見して酒の過ぎしか名僧の 

  風呂の中にて 事のきれたり

前日は 人と語らひよろこびて

  一夜明くれば 永久の旅立ち

合掌


父親が遷化して7年後、私の妻はパーキンソン病を発病した。

脳内のドーパミンというホルモンが減少し、運動や筋肉や体幹のバランスといった機能が制限される神経難病だ。

「子どもを亡くし、前の奥さんを亡くし、今度は私が難病になって・・・・。かわいそう・・・・」 と、妻は結婚したときと同じようなことを言う。しかし私は自分をかわいそうだと思ったことは一度もない。

それよりもむしろパーキンソン病の患者会の支援ボランティアをしていた妻自身がパーキンソン病を発病し、その難病を受け入れるまでの2年ぐらいの間の苦しみ――

「なぜ自分が難病にならければならないのか」、

「将来、病気が進行すればどうなるのか」、

これは難病になったものにしかわからないことだと、あらためて痛感させられた。


その後、私は徐々に役職を退き、今、設立から足かけ20年会長を務め、妻と二人でかかわってきた和歌山県難病団体連絡協議会は新たな方に引き継ぐことができた。

少し時間に余裕ができたなかで、立ち上げた地域の難病患者家族会「きほく」の事務局を妻とともに担当し、薬物療法を続けながら一緒に参加することができる。病気であっても「誰かのために何かしよう」とする妻を誇りに思う。

そして結婚したときに感じたのと同じように、手をつなぎながら、ちょっとした買い物に行けることの幸せ。仕事のない日には薬を調節し、少し遠出をして外食を愉しむことの幸せ。講演旅行では体調がすぐれないときには、空港で車イスを借りて行けることも幸せ。

私自身も、体質遺伝による痛風患者歴30年で、あわせて大腸憩室の発作もたまに起こすが、まずまず元気に働けることの幸せ。時には思い切りけんかできる相手がいることの幸せ。

加えて、おしっこがでること、声が出ること、耳が聞こえること、夜は安心して眠れること、歩けること、こんな当たり前のことがありがたいと思える。


私にとって「愛別離苦」は、坊主としての使命を明確にしてくれたのとともに、

「幸せの種は身の回りにあふれているぞ。そして、その種にはすべてありがたいというプライスカードがはられているぞ」と教えてくれている。


合掌

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Sep 14, 202309:29
田舎坊主の愛別離苦<花見宴のあと>ー夜桜と突然の遷化ー

田舎坊主の愛別離苦<花見宴のあと>ー夜桜と突然の遷化ー

<夜桜>

私が再婚して2年後の春、寺の境内にある一本の桜の下で夜桜の宴席を計画した。

そのころ私は役場の教育委員会に非常勤で勤務していて、集まった15人ほどの仲間は宴会が始まると、ほとんど4月の人事異動の話に花を咲かせていた。

宴もたけなわのころ、住職の父親が庫裡からやってきて、「ワシも中に入れてくれんか」と、仲間入りしたのである。

父親は役場勤めも長く、集まったなかに当時の部下もいたこともあって、庫裡でじっとくすぶっていることに我慢できなかったのだろう。

役場勤めの後半をほとんど保育所の園長として勤務していたものだから、みんなは「園長先生」と親しみを込めて呼んでくれる。

父親が同席してからは、話題は役場の昔話に変わっていった。

「ああ、楽しいなあ」

「ええ花見やなあ」

と、久しぶりに役場の話をできたことがよほどうれしかったのか、「庫裡に入って呑もう」と、庫裡で花見の二次会がはじまったのである。

いつも帽子を欠かさなかった父親は夜11時を過ぎたころ、押入れの中からたくさんの帽子を出してきて、「この帽子の中から、好きなものを持って帰れ」といいながら広げ、友人たちはそれぞれ好みのものを一つずつ手にして、この日の夜桜花見はお開きとなった。

みんなが帰ったあと、風呂好きの父親に「今日は酒を呑んでるから、風呂に入ったらあかんで」といって、私はお寺から5分ぐらいの処にある自宅へ帰った。

<突然の遷化>

翌日、私は妻と昼頃には帰るつもりで奈良法隆寺の壁画展に行くため、朝から出かけた。

昼過ぎ、家に帰り着くと、「帰ったらすぐお寺に来るように」との走り書きが自宅の玄関におかれていた。

寺に着くと親戚のものが庭を掃いていて「はやく、はやく」と私を庫裡へと急かした。

行くと、床の間には、白い布がかけられた父親が寝かされていたのである。

「まさか・・・・」

血の気が引くのを感じながら、母親に事情を聞くと、父親は昨日の夜には言われたとおり風呂には入らず、朝10時ごろ朝風呂に入った。ところが一時間過ぎても出てこないので母親が見に行ったら、湯船のなかで息絶えてぐったりしていたというのだ。

昨夜、みんなに帽子を手渡したのは、まるで己の死を予測していたかのような、形見分けの儀式だった。

 *

野辺の送りには、境内の満開の桜と、多くの友人知人の見送りを受け、御仏の子として生まれ、やがて御仏の懐に還っていくという御詠歌、

   あじの子が あじのふるさとたち出でて

   またたち還る あじのふるさと

の詠歌衆の合唱に包まれ旅立った。

そのときです。

堅い満開の桜の花が不思議にも風もないのに、まさに桜に心ありとばかり、旅立つ父親に散華するがごとく、見事に舞い散ったのである。

合掌

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Sep 11, 202307:16
田舎坊主の愛別離苦<幸せとは>ー田舎坊主の再婚・半生は二人で生きるー

田舎坊主の愛別離苦<幸せとは>ー田舎坊主の再婚・半生は二人で生きるー

■田舎坊主の再婚


その後、私はある女性に恋をした。

その女性は、私が教えていた三味線教室に生徒としてきてくれていた、私とは同年代の人だ。

私はその女性と結婚した。

彼女は、「子どもを難病で亡くし、前の奥さんをガンで亡くしたあなたが、今度こそ幸せにならないと」と、私に言ってくれた。

私たちは二人で結婚式を挙げ、その後友人知人を招き、少し離れた町のホテルでささやかな披露宴を催した。

その日の朝、70歳を過ぎた私の母親から小さな紙切れを渡された。

無造作に四つ折りにされたその紙切れには、

「良恒 おめでとう おかちゃん(母のことを私はそう呼んでいた)はほんとうに うれしいです」

と、マジックペンを使い、大きな文字で書かれていた。

大正10年生まれの母親は10人兄姉の上から5人目で、子どものころは生活が苦しく、両親を助けるという、その時代ならではの口実のもと、ようは口減らしのため、いくつもの家に奉公に出され、遠くは神戸の織物屋まで行ったと聞いている。

その仕事は子守、掃除、洗濯、台所などなんでもさせられた。いつも几帳面で一生懸命だった母親は奉公先にも大事にされ、私が長じてからも年賀状だけはやり取りしていたようだ。

そのなかでも、広島から神戸の奉公先に仕事に来ていたおばさんにとてもかわいがられたことが忘れらず、死ぬまでに一度会いたいとよく言っていた。そこで私は、長じてから初めての新幹線に乗り、母親を広島のその人の家まで連れて行ったことを今も覚えている。

そんな母親がただ一つ後悔の思いを口にするのは、満足に小学校にも行かせてもらえなかったことだ。

文字を書くときはいつも私たち子どもに頼み、それを見ながら独学である程度字を書けるようになったものの、ほとんどがひらがなで、書ける漢字は子どもの名前と名字ぐらいだったように思う。件の年賀状も私たち子どもに書かせていた。

その母親が私の2度目の結婚の朝、小さな紙切れで、精一杯のよろこびを伝えてくれたのだ。

それを読んだとき、母親はそれまで何も言わなかったけれど、三男の私の半生が少なからず不憫(ふびん)でならなかったのだろう。

そういう心配をかけ続けてきたことに、私は胸が締めつけられた。


■半生は二人で生きる


披露宴のお開きで、「温かいご祝福ありがとうございました。今までいろいろありましたが、これからの残りの半生は彼女と、ともに生きていきます」と、彼女への誓いの思いを込め、お礼のあいさつをした。

私は二人で生きる幸せを実感した。

それまでの私の経験がそのことをいっそう増幅してくれたと思っている。

 それは、ちょっとした買い物に行けることの幸せ。

 少し遠出をして外食できることの幸せ。

 言い合いできる相手がいることの幸せ。

 一緒に講演旅行に行けることの幸せ。

 安心して元気に働けることの幸せ。


一人ではそれは侘びしいものだ。

 

さらにはその後、近くの特別養護施設でヘルパーとして働いていた長女が突然退職し、

「あたし高野山の尼僧学院へ行って、坊さんになる」と言って、尼さんになってくれたのだ。そして今、お寺を手伝ってくれている。

幸せの実感とともに、思いもしなかった長女の変身は、本当にありがたいと思った。


合掌

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Sep 08, 202308:56
田舎坊主の愛別離苦<5年と1ヶ月と1週間>ー看病の果てー

田舎坊主の愛別離苦<5年と1ヶ月と1週間>ー看病の果てー

次女の七回忌の法事をすませた夜、妻が腹痛を訴えた。

エコーで診てもらったところ、肝臓に小さな影があるということで、念のため、成人病センターで診察を受けることになった。

精密検査を済ませたあと、別室に呼ばれた私に先生は、

「肝臓ガンです。手術をしてもよくて余命は5年以内」と告げられた。私は、先生に「本人にはガンのことは告知しません」と伝え、最後までガンであることは話さないと決意した。

私は病室に帰ってできるだけ表情を変えず「手術でとれるから正確な診断はそれからやと」といい、2日後、手術と決まった。

最初は数時間の手術時間と聞いていたが、六時間ほど経過したころ、先生が手術室から出てきて、

「膵臓にもガンがあることがわかり、膵液が漏れないよう、切っては縫い切っては縫いを繰り返す必要があるため何時間かかるか分からない」

というのだ。結局、13時間という大手術だった。

 *

自宅での療養後、症状は悪化し、近くの病院へ入院。

MSコンチン(モルヒネ鎮痛薬)だけの治療が続いた。

手術して一年半後の春、私は主治医に家で看ることを告げ、館長をつとめている公民館の文化祭が終わったあと、自宅に連れ帰った。

約3ヶ月後のある日、「トイレへ行きたい」というので、まだ和式だったわが家のトイレにやせた彼女を子どものように抱いて用をすませた。

大きな便を一つしたあと、布団に横たえて五分も経たないうちに呼吸の間隔が長くなり、穏やかに息をひきとった。

愛娘に寄り添って看病した5年と1ヶ月と1週間は心労とストレスと疲労を滞積し、母親の体をもむしばみ、先立った娘のもとへと40歳での旅立ちを急いでしまった。 

娘の死後、妻は得度し、その子の名前の一文字「英」をとった僧名「妙英」を戒名に記した。

 舞徳院蓮容妙英大姉

享年四十歳


合掌

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Sep 05, 202306:29
田舎坊主の愛別離苦<5年と1ヶ月と1週間>ー次女の闘病ー

田舎坊主の愛別離苦<5年と1ヶ月と1週間>ー次女の闘病ー

1980年に生まれた私の次女は、生後まもなく白色便と黄疸が続き、大学病院で希少難病の胆道閉鎖症(たんどうへいさしよう)と診断された。

担当の若い小児科医は「この子は半年で死にます」と、当時の医学書に書かれたとおりのことだけを言って、その病気のことについて他の医療機関などの情報は全く教えてもらえなかった。

ワラにもすがる思いで近くの知り合いの医師に相談しところ、世界ではじめてその病気の手術を手がけた東北の大学病院のK先生を紹介され、そこで先生の診断を受けることができた。

そのとき先生から、

「なぜ和歌山県からこんなに遠い東北の地まで来たの?あなたの家の近くの県のこども病院ではすでに30件以上の手術実績があり、成績もいいようですよ」と聞かされた。

私は胆道閉鎖症を積極的に治療している病院は日本ではここしかないと思って来たのに、なぜ、初診の大学病院でそのことを教えてもらえなかったのか、本当に残念でならなかった。

結局、病名は「先天性胆道閉鎖症」で、助教授のR先生が執刀医となり、K方式と呼ばれる肝臓と十二指腸を直接縫合する手術を1年半の入院期間中に3回受け、一時は「この子はもう心配はいらない」と言われるほど回復した。

  *

その後、近県のこども病院に転院することとなった。

当時、東北の大学病院では付き添いは許されていたが今度は完全看護となり、しかも週に一度だけガラス越しの面会を許された。というのもその後、水疱瘡に感染した娘は、とりわけ肝臓を痛める全身感染のため、長期の隔離状態にされていたのだ。

娘が2歳を迎えたある日の面会の時、ガラスの向こうで看護師さんに食事をさせてもらったあと、髪の毛を梳(す)いてもらっていた。

髪を湯で湿らせてくれているか、ベビーオイルのようなものを櫛につけてくれていると思っていたのだが、ガラス越しに見える娘の頭は髪を梳かれるたびに後ろにのけぞり、ある時はブチブチッと、1年半寝たままだった縮れ毛の髪がちぎれているのではと思えるほど頭を前後にしゃくっているのである。

私たちは1週間に1度しか顔を見ることができないのに─。娘もそのときだけしか両親の顔を見ることができないのに─。しかも毎日毎日にがい薬と痛い注射の連続なのに─。

結局、そのことがきっかけで退院させることになった。

 *

わが子が闘病している間に知ったことは、入院している子どもたちの病気は多岐にわたり、如何に難病で苦しむ家族が多いことかということ。さらには学閥などによって開示されない難病医療に関する情報、福祉制度の周知の未熟さ、専門医療機関の少なさ、そして何よりも患者やその家族が孤独な闘病をしていることなど、多くのことを学ぶことができた。

このような経験を踏まえ、私は患者同士が情報を共有することの大切さや、同病の患者同士が安心して自分の苦しみや悩みを話すことができる患者会の必要性を強く感じた。そして当事者が声を上げ、医療や福祉の向上を願い、行政に訴えていくことの大切さも同時に感じ、平成元年(1989年)和歌山県難病団体連絡協議会を結成するに至ったのだ。

こども病院を退院後、できるだけ入院を避け、通院を中心として県内外の病院を転々とした。娘は薬を飲むのもいやがらず、週二回のアルブミンの外来注射も全くいやがらず、家では「ほいくちょにいくの」と、腹水のたまった大きなお腹でホックができないお姉ちゃんのスモックを着て、親の心配をよそに明るく走り回った。

  *

生後まもなく「この子は半年で死にます」といわれた娘は、5年と1ヶ月と1週間という命の日々を重ね、その年の秋、「みずをのみたい」といって肝硬変で息をひきとった。

私は娘の小さな棺に次のような文を収めた。

五さいまでよくがんばったね。

大きな手術はこわかったね。 

ほんとうはにがい薬はいやだったよね。

いたい注射のほうがもっといやだったよね。

でもいつも明るくしてくれたね。ありがとう。

えりのおなかにはおへそが二つあって、あとであけたおへそはいつもいたかったし、かゆかったね。

かいていっぱい血が出るときもあったから、

もう一つのおへそはいやだったよね。

それでも明るくしてくれて、ありがとう。

でもほんとうに悲しそうな顔をしたときもありましたね。

かみの毛がちぎられるほど、くしでとかれたときです。

お父さんたちもその時はすぐにでもつれて、

おうちへ帰りたいと思いました。

えりが病気になったことで、お父さんもたくさん勉強しました。

これはえりの残した財産でもあり、

えりの生きたあかしとして、むだにしないようにしますからね。

えり、ゆっくりあそぶんだよ。

そしてときどき、下をながめて、みんなをまもってください。

ほんとうによくがんばったね。


合掌

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Sep 01, 202311:23
田舎坊主の愛別離苦<尊敬する老僧>ー老僧の遷化ー

田舎坊主の愛別離苦<尊敬する老僧>ー老僧の遷化ー

息子の葬儀を終えてから、N師はより老僧に見えるようになった。

跡継ぎが寺務のかなりの部分を勤めてくれるようになったのもさることながら、愛息の死がやはり大きなショックとなったようだ。

 

それから10年、N老僧の目は一層衰え、夕方になるとほとんど見えなくなってきた。

寺同志の助け合い組合である結集の寄り合いにも出てくることはなくなり、この頃は寺でも床に伏すことが多くなっていた。


老僧の住まいする北側には鎮守(ちんじゆ)の森が控え、林立する杉の大木と一本の大きな銀杏(いちよう)の木が八十有余年、N師を見守り続けている。

 その銀杏が黄葉する初秋の頃、大黒さん(住職の妻のこと)と副住職のS師夫妻が見守るなか、私の尊敬する大好きなN老僧は安らかに遷化されたのである。


老僧への諷誦文(ふじゆもん)


私はN老僧の葬儀の導師を務めさせていただいた。こころからの感謝の気持ちを込め、次のような諷誦文を献げた。


敬って日(もう)す諷誦文のこと

其れ、かつらぎの山峰、茅(かや)の穂を秋風たなびき、

飯盛山の郁子(ムベ)の実りは紫紺鮮やかに垂果し、

曼珠沙華はその脇に数本の緑葉を抱き、

今や初秋と雖も間近なる冬の支度を調えり。

季節の移ろいは必ずやあらたなる季節を迎うると雖も、

生者必滅は、人、その生命たるや現世に再び生命を迎うることなく、

尊きは人として生きたる一生にこそ、

春夏秋冬の波瀾(はらん)を包含(ほうがん)せしめるものなり。

惟(おも)んみるに釈尊寺尊住大和尚は、

受けがたき人身を仏門に受け、

受けがたき仏門は勧修寺山階(かじゆうじやましな)派釈尊寺に受け、

その峻険なる檀家、三昧に参籠(さんろう)する師の法務下駄の音たるや経を唱誦する音色にて、

まさに山あいは密厳浄土のごとくなり。

師は檀家に参るを愉しみ、檀家は師の訪来を慶慕し、

相互礼拝合掌する檀信徒の姿はこれ真に僧の鏡なり。

身丈五尺と雖も、師の心たるや無尽広大なる仏法を孕(はら)めり。

また、寺内にありては奥方を大黒といたわり、大黒殿は師に慕い、

その夫唱婦随の姿も温かきこの地の風景として

衆目垂範の法事なり。

師が果たせし寺門護持、寺門興隆の功績たるや

他に比すること能わず。

ああ哀しいかな、悲しいかな、

大和尚の遷化は檀信徒の心の柱を失えりと雖も、

今やご子息後住が果たせる寺務法務の勤めたるや、

大和尚に優るとも劣らぬ温愛周到にして

檀信徒の欣慕厚きこと、何とぞ安心にて

宗祖大師の蓮台に上られんことを祈るのみなり。

加うるに我が結集の大師匠たる老僧の遷化は、

我ら愚僧を暗処霧中に迷走余儀なくされりと雖も、

師の教えを護り、その教えを灯明とし、

護寺安穏を誓うものなり。

仰ぎ願わくば、尊霊、己身受用の恵灯を照らし、

速やかに大覚の宝座に上り、

法燈護持、寺門隆昌を護念し給わんことを。

 乃至法界平等利益

 導師 良恒 敬白

(諷誦文の大意)


かつらぎの山頂では、ススキの穂が秋風にたなびき、飯盛山のムベは紫紺の色鮮やかに実り、

曼珠沙華の根もとには数本のとがった葉を芽吹きはじめています。

初秋といっても、もうすぐやってくる冬の支度をしているようです。

季節は必ず新しい季節に移り変わりますが、生者必滅(しようじやひつめつ)の教えは、

人が死んでも、また同じ命が生まれることはありません。

だからこそ、その生きた一生が尊いのです。

その一生には春も夏も秋も冬もあります。

N大和尚は、その生を人身に受け、

しかも仏門勧修寺山階派釈尊寺にお生まれになられました。

険しい山手に檀家があり、

墓地や檀家にお参りするN師の法務下駄の音は、

まるでお経を唱えるような音がして、

そこはまさに密厳浄土のようであります。

N師は檀家に参ることを愉しみとし、

檀家さんは老僧がお参りしてくれることを心待ちにしています。

すれ違う檀信徒と老僧がお互いに拝みあう姿は、

私たち僧侶の鏡とするところでした。

身長は五尺と小さいけれど、

師のその心は果てしなく広大なる仏の法をいっぱい説いていました。

寺では奥さまをいたわり、奥さまは老僧を慕い、

いつも一緒に歩まれる夫唱婦随の姿は、

まるでこの地になくてはならない風景のようなもので、

それ自体が教えそのものでした。

しかも老僧N師が果たした寺門護持、寺門興隆の功績は

他を寄せ付けない素晴らしいものでした。

悲しいことです。

N大和尚の遷化は檀家の方々の心の柱を失ったようなものです。

しかし、ご子息があとを継ぎ、寺務法務をつとめている姿は、

大和尚に優るとも劣らぬ丁寧さと温かさで、檀信徒の信頼も篤いものがあります。

どうか安心して宗祖弘法大師のもとに上って下さい。

さらに私たちの大師匠である老僧N師が亡くなられたことは、

力不足の私たちを暗闇に放り出されたような思いですが、

老僧N師の教えをまもり、その教えをみ灯りとして精進していくことお誓い申し上げます。

すべてにご利益がありますように。

合掌

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Aug 29, 202311:01
田舎坊主の愛別離苦<尊敬する老僧>ーご子息への諷誦文ー

田舎坊主の愛別離苦<尊敬する老僧>ーご子息への諷誦文ー

N師のご子息の葬儀では私が導師をつとめ、次のような諷誦文(ふじゆもん)を読みあげた。


それ惟(おもん)るに、氏は生前すでに仏縁篤く、

人身受け難きを寺門に受け、その生涯たるや在俗と雖も

相互礼拝、慈悲円明を日夜具現せり。

加うるに性格、熟慮達深、温厚誠実にして

家族朋友の信頼篤きこと、他に勝るものはなし。

家にありては温顔柔和にして親を思い、妻子をいたわり、

外にありては職責重くとも、

寛容なる氏に接するものみな欣慕せざるものはなし。

惟うに慈徳円満、愛徳無比の人と雖も、

生者必滅の理はこれを除けることなく、

まさに桜花散ることを厭(いと)わざるが如く、

薫風今や無常の風となりて、兜卒天上に急ぎ赴(おもむ)かん

嗚呼、悲しい哉、哀しい哉。

然るに、その理はすでに悟れりと雖も、

知己知友ましてや人世寿命八十有五歳の今、

五十歳を一期とせし慈父の旅立ちは、

返すがえすも痛恨惜別の情に堪えざるなり。

なかんずく愛児愛妻の悲嘆、愛別離苦の涙は見るに忍びず、

速やかに宗祖大師の護持哀愍を垂れたまい、

幽明斉しく法雨悉く五智円満の境涯に招導せしめたまえ。

ああ新緑の朝露、地に降りて万草を育み、

天に乾きて雨水を潤す。

一代の明星逝いて慈悲温徳の教えを遺す。

茲(ここ)に真言秘密、般若理趣の秘法を梵筵し、

生前の偉徳功績を讃仰す。

仰ぎ願わくば、尊霊速やかに阿字の霊台に上り、

吾らが微供を納受し給わんことを。

乃至法界 平等利益

導師 良恒 敬白

(諷誦文の大意です)

よく考えてみると、あなたは生まれる前からすでに仏さまとの縁深く、

人に生まれることもまれであるにもかかわらず、お寺に生まれました。

そしてその生涯は僧侶ではありませんでしたが、

お互を拝みあい、慈しみ深い毎日を送られました。

しかも性格は熟慮深く、温厚で誠実にして

家族はもちろん友人たちの信頼がとても篤い方でした。

家では優しく柔和で、親思いで、

もちろん妻や子をとても大事にしていました。

職場では責任の重い役職にあっても寛容なあなたに接する人たちは

みんなあなたを深く慕っていました。

そのような温かいあなたと雖も、

生者必滅という教えは避けることができませんでした。

まるで桜の花が当然散るように、無常の風はあなたにもふりかかり、安楽浄土に逝ってしまわれます。

ほんとうに悲しいことです。

そういうことは分かっているのですが、

友人知人にとって あなたが五十歳で旅立たれることは、

ほんとうに残念でなりません。

とりわけ愛児や愛妻の悲しみと、

愛しい父との別れの涙はつらくて見ることができません。

どうか宗祖弘法大師のおちからでお浄土に導いて下さい。

新緑の葉につく朝の露は、地面に落ちて草を育て、

乾けば蒸発して雨水となります。

あなたが逝って、優しさと温かさの大切さを知りました。

今、真言秘密、般若理趣のお勤めをし、

あなたの生きた証を讃えます。

どうか仏の国にて私たちの思いを受け止めて下さい。

全てにご利益がありますように。

合掌

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Aug 25, 202307:21
田舎坊主の愛別離苦<尊敬する老僧>ー寺を継ぐよー

田舎坊主の愛別離苦<尊敬する老僧>ー寺を継ぐよー

そんな想いを感じとっていた息子の一人がある日突然、

「わしがあとを継ぐよ」

といってくれたそうだ。

彼は企業の管理職を務めるまでになっていたが、その役職を捨て、一から修行して坊主になるといってくれたという。

N師にとってこんな嬉しいことはなかったが、かといって重要な役職を捨ててまであとを継いでくれるということに、申し訳ない気持でいっぱいになったのも本心であった。


修行を終え、真言僧になるための最大の修行である加行(けぎよう)も成満し、自坊の副住職となった息子のS師は、両親を安心させたのはもちろんのこと、檀家さんも大喜びで彼を迎えた。

彼はN師のいいところを全部引き継いでいて、人あたりなど、親譲りで非の打ち所がないのである。

当然、檀家受けもよく、法事には息子のS師をリクエストされることも多くなってきたことが、N師にとって心地よい幸せでもあった。

二人でお葬式に出仕する場合、親子で檀家に出向き勤めるということができたこのころが、N師にとっては人生最高の幸せを実感していた時間だと思う。


息子の死

  

でも幸せは続かなかった。

しばらくしてもう一人の息子、S師の兄が病魔に冒され、満49歳という若さで急逝したのだ。

N師も坊主として多くの檀家信者に枕経をあげ、引導を渡してきた。

ときには遺族の涙にもらい泣きしたこともある。

若くして亡くなった青年に声を詰まらせながら枕経をあげたこともある。

しかし自分の息子が愛しい嫁と幼い孫たちを遺し、自分たち両親よりも早く旅立ってしまったことはー

これほど悲しいことなのか─。

これほど辛いことなのか─。


その思いは表にこそ出さなかったけれど、そのことは痛いほど伝わってきて、胸が熱くなったことを私は今も覚えている。

合掌

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Aug 22, 202305:07
田舎坊主の愛別離苦<尊敬する老僧>ー誰からも慕われたN師ー

田舎坊主の愛別離苦<尊敬する老僧>ー誰からも慕われたN師ー

N師は真言宗山階(やましな)派の末寺の住職である。身の丈一五〇センチあまり。小柄な体格で、外出はいつもソフトフェルトの中折れ帽をかぶり、法衣や和服の上にウールのオーバーを羽織った、おしゃれな坊さんだ。

 どこに行くにもその姿で大黒さん(住職の妻のこと)と一緒だから、どこで出会ってもN師は一目で分かるのだ。

 N師の寺の檀家は和歌山県かつらぎ山系の山あいの麓に散在し、バイクも自動車も乗らないN師は、高低差四百メートルもある急峻な山道を、法務の下駄履きで、日々の日行や春秋の彼岸参り、真夏のお盆の棚経と一人で勤めている。

 長く土葬埋葬の習慣のあるこの土地には、山の頂上付近に埋葬墓地がある。たぶんここで生まれ育った昔の人々は、村で一番景色のいいところに共同の墓地を構えたのだろう。そこからは南に高野山を望むことができ、西を望めば紀ノ川の河口を眼下に見渡すことができる。さぞかし西方極楽浄土での安寧は、ここに埋葬されるものたちのいわば特権として享受できることを信じて、ここを密厳土としたのではないかと、その場所に立ってみてつくづくそう思うのである。

 今でも墓のことを「山」ということがあるが、山でなければならない意味がここにあるような気がするのだ。

 N師は法事に招かれるとまず位牌やお膳、ロウソク立て、線香立て、供花が飾られた当家の床の間で三十分ほど経をあげ、そのあと施主と法事参列者全員で山の上にあるその墓へ参ることになる。

 田舎での墓参りは原則「歩き」で「本道(ほんみち)」と決まっている。本道とは古くから墓参りに利用している道のことであり、舗装され車が通る広い道のことではない。

 そんな道を夏には玉の汗を拭きながら上ると、法衣の下の白衣はもう汗でぐっしょり濡れてしまう。山の涼風はお大師さんの中啓(僧の持つ少し開き気味の扇子)の風のようでありがたい。

 冬は逆に山に着けば体は温まっているから、むしろ寒さは感じない。とはいうもののこれも程度もので、特別風通しのいい場所だけに、寒中は麓から吹き上げる風に法衣の裾は舞い上がり、白いものがちらつきはじめるとお経をあげるN師の声も寒行さながらの絞り声となる。

 お墓でのお勤めが終わると口々に亡き人の話や、久しぶりに田舎に帰ってきた親戚のものたちは日ごろの無沙汰を話題にしながら、施主(せしゆ)の家までのんびりと帰るのである。

 ここからが、施主の檀家さんや親戚の人たちにとっても、心置きなくくつろげる法事の宴がはじまるのである。

 この地ではN師が同席してくれることを当然のように考えているし、N師にとっても斎(とき)というお膳の施しを受けないと施主に失礼と感じている。そしてこの場、この時間が法話の席でもある。

 N師は本当に日本酒が好きなお坊さんだ。といっても決して酒が強いというわけでもなく、酒癖が悪いわけでもない。ほんとうにおいしそうに呑むのだ。そして程ほどに酔いが回ってくると、明るく、ほんとうに楽しそうに笑い、その声が宴席の雰囲気を一層明るくしていく。

 それは、法事であってもしっかり供養した後は楽しくなければいけないとの信念から来る、N師の坊主としての哲学でもある。

 この地では葬式の始まる前にも般若湯(燗した日本酒)が振る舞われる。

 私も助法僧として手伝いに行ったとき、

「後ろから見られて体が揺れなかったら、大丈夫。呑んで呑んで」

と、N師によくお酒をすすめられた。

 田舎においては供養は「食うよう」で、坊主に斎(とき)を施すことはイコール仏供養になるのである。

 本来、供養の「養」という字は、「羊」偏に「食」と書いたそうだ。羊を食べること、その様子をお供えすることが供養の意味でもあったのかと考えると、あながち「供養は食うよう」も間違いではなさそうだ。

 長くこの山あいで檀家寺の住職として勤めてきたN師にも、一つ不安があった。

 それは、この土地柄で足腰は心配ないのだが、目が不自由になってきたこと。それに伴って寺の跡継ぎがいないなか、いつまで檀家参りができるかということである。

 N師には三人のご子息がいるが、それぞれ所帯を持ち、田舎を離れ、一般企業に就職し、寺とは無縁の人生を歩んでいるのだ。彼らはそれぞれの職場において重要な役職を担っている、言わば働き盛りだ。今さら寺を継いでくれとはいえないし、寺の仕事は決して生活を保障できるものでもない。

 しかし檀家は自分を必要としているし、自分しかいない。毎晩、楽しみの晩酌をしていてもふと不安がよぎるのであった。

合掌

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Aug 18, 202310:30
田舎坊主の愛別離苦<栄枯盛衰は世のならい>ー諷誦文ー

田舎坊主の愛別離苦<栄枯盛衰は世のならい>ー諷誦文ー

葬式ではSさんの威徳を讃えるとともに、兄弟たちを三本の矢に喩え、意を込めて、次のような故人に対する祭文、諷誦文(ふじゆもん)を読み上げた。

敬って白(もう)す諷誦文(ふじゆもん)のこと

それ飯盛龍門の峰々、今、初冬のよそおい急ぎ秋葉を落とし、

人世の有り様まさに自然の移ろいを通して諄々たる諭しの教え説くが如し。

季節の輪廻、やがて爛漫の春巡り来たると雖も、

人の命たるや再び青春の日は訪れず。

顧みるに氏は大正○年春、○○の長子として受け難き人身に生を受く。

されど赤貧極める一家に生まれ来る五人の兄弟、

まさに奉公修行のみが父母を助くる所業なり。

ましてや長男たる故人は兄弟の幸せのみ念ずるが故、

長ずるにこの地にて欄間製造業を起こし、

その後、欄間建具製造専門店としてその名声たるや県内に留まらず、

民家旧家は言うに及ばず、寺院仏閣の本堂庫裡を手がけるも、

その数、百指に足らず。

その奉仕奉納の功徳たるや余人を寄せ付けず。

その余慶に鑑み、院号を贈る。

然りと雖も、哀しいかな栄枯盛衰は氏を例外とせず。

閑風身を梳るが如く建築様式の変容は古来熟練の手法も必要とされず、今に至りて事業縮小の一途も事実なり。

今こそ三本の矢羽を重ね、心壱つにて精進するは

往時の隆盛、今、再び招来せし所以なり。

加うるに大正・昭和・平成の御世を言い尽くせぬ苦労で乗り越え、

今天寿にて兜卒天上に往生せし故人に対し、

子供ら合い寄り職僧を招聘し真言秘密の法筵を開き、

厳儀を修するは親孝行、これに勝るものは無し。

仰ぎ願わくば尊霊速やかに阿字の蓮台に上り、

我らが微供を納受せられんことを。

 乃至法界平等利益 六身眷属如意円満の為

平成○○年十二月○日 導師 良恒 敬って白(もう)す

(大意)

飯盛山や龍門山は初冬のよそおいのため、紅葉を落としはじめています。自然は四季の変化を通して、

人生や社会のありかたを教えてくれているものです。

季節がめぐり、春になって満開の桜の花を見ることができても、

人の命はめぐって戻ってくるものではありません。

あなたは大正○年の春、○○の長男として生を受けました。

しかし貧しさの上、五人もの兄弟たちは、

両親と家計を助けるため奉公に出てがんばりました。

ましてや長男であるあなたは、ただただ家族の幸せのみを考え、

苦労の末、当地で欄間(らんま)建具製造専門店をはじめました。

その後、会社は大きくなり、その名声は県内にとどまりませんでした。

そしてその事業は民家や旧家だけでなく、

寺院仏閣の本堂庫裡も手がけるようになり、

その数は百件以上に及びました。

その奉仕の心で奉納することはまさに功徳であり、

他の人は全く及びませんでした。

また人間を大切にする生き方は他の人の及ぶところではありませんでした。

そのすばらしさを思いこの院号を贈ります。

しかし栄枯盛衰は世の習いで、Sさんも例外ではありませんでした。

厳しい風が身を削るように、建築様式も時代の流れで洋風に変わり、

熟練のわざも必要でなくなりました。

そのため事業は縮小せざるを得ませんでした。

今こそ、兄弟三人が力を合わせ、心を一つにして努力すれば、

かつての勢いも必ず取り戻せると思います。

しかも大正・昭和・平成の三代をいうにいわれぬ苦労で乗り越え、

天寿を全うして安楽浄土におもむいた故人に対し、

子供たちが寄りそい、このような立派な葬儀をするは

最高の親孝行だといえます。

どうか仏の国にてこの兄弟たちの思いを受け止めてください。

すべてにご利益があり

親戚親類縁者が円満でありますように

合掌

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Aug 15, 202308:20
田舎坊主の愛別離苦<栄枯盛衰は世のならい>ーおやっさん、おおきにー

田舎坊主の愛別離苦<栄枯盛衰は世のならい>ーおやっさん、おおきにー

Sさんが亡くなったと連絡が入った。

当家に着いて枕経をあげようとすると、次から次へとかつての弟子たちがお悔やみにやってきた。

「おやっさん、おやっさん」と故人を親しく呼ぶ彼らは、今ではそれぞれが一国一城の主(あるじ)として建材や建具業を営んでいる人たちである。

横たえられた白布の「おやっさん」に職人らしいゴツゴツした手を合わせ、口々に世話になった礼を言うのである。

その人たちから出てくる言葉は、全てが「おやっさん、おおきに、ありがとうございました」なのだ。

Sさんは貧しい家の長男として家計を助け、ほかの兄弟たちの面倒を見る必要があったなかで、他人の飯を食い、口に言えない苦労を重ねてきた人である。

だからこそ工場が大きくなってきたとはいえ、弟子や従業員たちを単なるコマとして働かせるようなことは徹底的に排除していったという。

聞いてみると、弟子や従業員だけではなくその家族までもきめ細かく配慮し面倒をよくみていたそうだ。

弟子が独立するといえば資金だけではなく、仕入れ先や顧客の情報も何一つ独占することなく与え、その子どもが結婚するといえばお祝いし、入院すればお見舞いし、常に自分の家族のように温かい心配りを欠かさなかったという。

面倒見の良さはそれにとどまらず、彼らの借金の肩代わりをしたことも一度や二度ではなかったらしい。

手を合わす弟子たちにとって、故人はまさに「社長」ではなく「おやっさん」であり、働いていたのは会社ではなく「家」だったのだ。

その「家」の主の存在は、弟子たちの拠り所として深く心に刻まれていることが、ただただ口々に発せられる「感謝の言葉」から容易に察することができた。

弔問を受ける息子たちにとっても、親の寛容さや温かさというものを、あらためて認識させられた通夜の前日であった。

さらに、子どものころから宮や寺を大事にしていた父親の背中を見て育ったSさんは、「先祖のおかげで仕事をさせてもらえる」と口癖のように言っていて、工場経営に斜陽の兆しが現れてからも寺院仏閣の建築や改築に際しては、その都度寄付することを忘れなかった。

それは次の仕事をもらうためでもなく、銘板に名を刻んでもらうためでもなく、あるいは税金対策などでもない。そのような打算は一顧だにせず、常に感謝と報恩の心を持ち続けたSさんの信念であり生き方でもあったのだ。

ちなみに数年前、私の寺の本堂や庫裏の大修理に際しても、「わしが生まれたふるさとの寺を大事にせなあかんのや」と、率先して多額の浄財を寄進されたことは記憶に新しく、飽くことなきその奉仕奉納の精神が周囲の人々の心を引きつけてやまなかったのである。  合掌

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Aug 11, 202306:20
田舎坊主の愛別離苦<栄枯盛衰は世のならい>ー欄間職人としてー

田舎坊主の愛別離苦<栄枯盛衰は世のならい>ー欄間職人としてー

大正のはじめ五人兄弟の長男として生まれたSさんは、幼くして欄間職人に付き、人一倍の努力を重ね、若くして自分の欄間製造工場を持つようになった。

もともと欄間に適した良質の杉や桐がとれる土地で、周辺には材木屋や建具屋が軒を連ね、Sさんは周辺の山を買い、製材部門とともに欄間工場を成長させていった。

しかも職人上がりのSさんが作る欄間彫刻は、その繊細さにおいて右に出るものはいないともいわれ、ある時には現代の名工として地元のテレビで紹介されたこともあるほど評判も良く、Sさんを慕って弟子入りする職人も数少なくなかった。

大工の信頼も篤く、高度経済成長の中、重厚な和風建築には欠かすことのできない欄間は飛ぶように売れ、事業が順調に推移すると、拡大した建具とともに製品は県内外へ出荷するようにもなり、いつの間にか県内屈指の欄間建具製造専門店へと発展していったのである。

Sさんは3子をもうけ、多くの従業員とともに子どもたちも家業を手伝い、工場に現場に事務にと力を合わせていた。

しかし時代の流れとともに大工が請負で日本家屋を建てるのではなく、大企業系の建築会社が大量にしかも安価で工務店に発注し、工務店に雇われた大工が工場でプレカットされた建材を現場で組み立てるといったような作業が急増してきた。

それにつれて建築家屋自体が洋風化すると、畳はフローリングに変わり、押し入れはクローゼットになり、土壁はクロス貼りとなって和室は激減し、みるみる欄間や従来の建具の売り上げは落ちていった。

好調期に投資した大規模な工場は物置状態となり、従業員は一人減り二人減りしながら、ついには居宅だけ残し、工場を売却しなければならない状況に追いやられてしまった。

栄枯盛衰は世の習いとはいえ、Sさんの一生は修行、努力、忍耐、成長、拡大、成功、減衰、縮小、廃業と、いわば扇の開きを絵に描いたような弧を描いて欄間建具製造業を閉じることとなったのである。

しかもその後、ただ一つ残った居宅で長年連れ添いSさんを支え続けた妻は病のため寝たきりの状態となり、妻が84歳でなくなるまで看病する日々が続いた。

この間、Sさん自身も脳梗塞を患い、ヘルパーさんや家政婦さんの力を借りながらの老老介護が続いた。

世間では、老いてから妻を亡くした男の余命はあまり長くないとよく言われるが、Sさんも妻が逝った一年後、その後を追うように89歳で旅立ったのだ。

 合掌

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Aug 08, 202306:48
田舎坊主の愛別離苦<父が逝き、母も逝き>ーY子さんの死ー

田舎坊主の愛別離苦<父が逝き、母も逝き>ーY子さんの死ー

子どもたちが施主となり、無事葬儀を済ませ、中陰(ちゆういん)の飾りもまだ半ばの四七日の日に、今度はY子さんが亡くなったと電話が入った。

ご主人が亡くなったショック、自分自身が退院まもなく体力が回復していなかったこと、ご主人の最期の世話をできなかった心残り、すべてがこの日の死に結びついたのかも知れない。

しかし、子どもたちにとって母の死の原因はそれだけではなかった。父が母を連れていったと思ったのだ。そしてそう思う理由があった。

それは父自身が死期を悟ったころ、「お父さんが死んだら、お前たちにお母さんの世話をさせなあかんのが可哀想や、だからお母さんを連れていく・・・」

と話したのだ。

優しさの思い合いは、不思議にもそんなあり得ないことを、悲しい現実にしてしまった。

お嬢さんたちにとって、父が逝き母が逝ったこの年の正月は、忘れることのできない、重くてつらい新年のはじまりとなった。

<子どもたちへ贈った説話>

 両親の満中陰の席で、次のような話をした。

この正月は大変やったね。

ひと月の間に、お父さんとお母さんを見送ったんだから。

 でも満中陰を迎え、こころこもったいっぱいの供養で喜んでいると思いますよ。

私たちには例外なく必ず最期の日がやってきます。

つい何年か前まで、この田舎でも野辺の送りがあって、棺の周りには、いろんな役を持った人がつき従い、お墓まで行きました。

ある人は大きな幡を持ち、ある人はドラを鳴らし、ある人は鐘を打ち、行列して進みます。

その音を聞いて、畑で仕事をしている人も、通りすがりの人も、近所の家の人もみんな手を合わせ、亡き人を送ります。

棺に収められた故人を偲んで手を合わせます。

でも、あの棺の中に明日、自分が入ると思って手を合わせる人はほとんどいません。自分はとりあえず死なないと思っています。

でもほんとうは、自分が明日、棺に入るかも知れないのです。

野辺の送りは「今度はあなたかも知れませんよ。いい生き方をして下さいね」と教えてくれているんです。

いつかわからないことを念頭において生きれば、他人に憎まれ口をいわないようにしよう。友人とは温かい接し方をしよう。

  家族には優しい言葉でかかわろう。今生きてる時間を大切に価値あるものにしよう。そう考えるようになります。

そのことに気づかせてくれるのが「死」であり、「葬儀」なんですね。

でも、大変な試練だけど、考えようによっては、お父さんとお母さんが一緒に行けるのは、幸せなことかも知れません。

両親が幸せと思えたら、少しこころは楽になると思うよ。

しっかり供養してあげることで、この試練は必ず乗り越えられると思うよ。

そして「大切な生き方をしなさい」と上からきっと見守ってくれると思うよ。   合掌

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Aug 05, 202307:13